2、

 長い冬が終わろうとしていた。

 空を覆う分厚い雲から、淡い色の青空が覗くようになる。除雪車に除けられた雪がうず高く積もっていた市街から、少しずつ、白いものが消えていく。氷に閉ざされていた地面が、徐々に顔を出してくる。

 その頃になって、やっと終わったのだ、と思う。

 常に視界に入っていた雪が、目に見えて少なくなってくる。豪雪と極寒を乗り越えた時の感慨。それは安堵に似ている。

 晴れ間が続くようになった空。山間から吹き抜ける風は角が取れたように柔らかくなり、それでもまだ雪の香りが微かに残っている。

 わたしはこの季節が好きだ。


 約三十年ぶりにソメイヨシノが開花したことを、テレビモニターのニュースが告げた。

 T大学の研究チームがソメイヨシノの再生に成功しました。テレビモニターの中でキャスターが読み上げる。あれほど「穢れ」として遠ざけておきながら、「日本を代表する花が復活しました」と告げる声は屈託がない。

 インタビューに答える神社の宮司。岐阜県、と小さなテロップが表示されている。長年、花狩りの世論に逆らいながら、山桜の老樹を守り抜いた小さな神社だという。

「なんだか報われたような気持ちです」「日本文化としての桜を取り戻してほしい」恥ずかしそうに口ごもった、だけど朗らかな声。神社の山桜は四月中旬に満開を迎える見込みです。まだ雪の残る境内を映しながら、キャスターが告げた。

 ニュースはやがて次の話題と移る。不審な人物による婦女暴行事件が相次いでいるとかで、キャスターが神妙な顔で警戒を呼び掛けた。思っていたよりも近場だ。

「嫌ねえ」

 おばあちゃんが同じニュースを見ながらぼやいた。「そうだねえ」と曖昧な返事をして、ハンガーにかけた白衣を手に取る。

 薬剤師、という肩書を手に入れてから、もうすぐ丁度一年が経つ。

「薫ちゃんも気をつけなきゃいけんよ。今じゃすっかりべっぴんさんやからね。おばあちゃんに似たんやねえ」

 おばあちゃんはいたずらっぽく言い、皺くちゃの顔をいっそう皺くちゃにして笑った。

 十三歳のとき、わたしはおばあちゃんにもらわれた。おばあちゃんは愛情をいっぱいに注いでわたしを育ててくれた。わたしは恩返しをするつもりで、おばあちゃんの薬局の受付を手伝っている。調剤師はわたしとおばあちゃん二人の小さな薬局だ。

 今時、受付を人間が務める薬局なんてほとんどない。それが成り立つのはここが都市部から離れているからだ。ほとんどの接客業がアンドロイドに取って変わられてから長いこと経つけれど、地元のお客さんに頼って細々と続けているうちの薬局には、とてもそんなものを買う余裕がなかった。

 

 その人がお店に現れたのは、午前の退屈の波を越えた頃だった。

 若い男の人だった。黒い杖に縋るようにしながら、右足を引きずって歩いていた。

 長い指が診察券を差し出す。スキャンして確認をすると、処方箋のデータには、抗鬱剤と精神安定剤が数種類。それを見て、何か腑に落ちた。彼のどろりとした目は、心を病んでしまった人特有の、どこか静かで胡乱な雰囲気を帯びていた。

 アルプラゾラムとフルボキサミンの合成錠剤は、その手の薬の中では最大手だ。「少々お待ちください」と言おうとした時、固く閉ざされていた彼の唇が、動いた。

「あの」

 低く、深いところに響いてくるような、不思議な声だった。

 前髪の下、陰った目がこちらを見据えた。目の下の隈が黒々と濃い。

「三十日分処方してください」

 胸の中をざわめきがよぎった。有無を言わさない口調に、思わず怯みそうになる。

 何か根拠があるわけではない。けれど、直感的に、何か不穏なものを感じた。強い抗鬱剤の多量接種によって、つい先日も、女の子が自殺を試みたばかりだ。

「申し訳ありませんが、致しかねます」

「お金の用意ならあります」

「……すみません、規則なので」

 わたしは下手な言い訳を重ねた。彼はしばらく食い下がったが、やがて諦めてくれたらしく、指定量の処方箋を受け取って店を出た。

 カウンター越しに、彼の後姿を見送った。狭いなで肩。右足を引きずるアンバランスな歩き方。それを目に留めて、わたしはひどい既視感を覚えた。

 途端、小さなひらめきが脳内を走った。わたしはカウンターから走り出て、彼の姿を追った。店を出たばかりだった彼は、大儀そうな様子で振り向き、わたしを見つめた。

「……何か?」

 怪訝そうな口調。黒目がちな目はどこか蠱惑的で、だけどすごく冷やかだった。

「あ、いや……お大事になさってください」

 わたしは逃げるように彼の前から去った。

 店に戻り、カウンターのタッチパッドを触った。普段は確認することもない顧客の氏名欄をたぐると、他と変わらない素っ気ない書体で「市村治」とあった。総合病院からの紹介で、今日が初診だったようだ。

 指が微かに震えていた。鼓動が速いのは、走ったせいか。それとも、身体を満たしていく、熱を伴った興奮のせいか。

 ――市村治。東京の英雄と呼ばれたあの人。

 

 十数年前。ある日を境にメディアで連日とりあげられた、どこか暗い雰囲気をまとった少年。当時はまだ華奢で幼さが残る印象だったが、伏し目がちな目元だけが妙に大人びていた。

 頭がとても良い子だったらしく、日本最高峰と呼ばれた大学に十五歳で入学していた。東京の暗部を暴いたのは、彼が十六歳で、大学二年生だった時だ。彼はその後一年休学しているが、華やかな経歴と整った鼻梁は、信奉者さえ生み出した始末。

 わたしも彼に心酔していた一人だった。

「治くんってかっこいいよね。あれで天才とか本当ずるいよ、菊池さんもそう思わない?」

 テレビの言葉をそのまま借りながら、クラスメイトは連日のようにキャーキャー言っていた。わたしは「そうかな、暗そうじゃない?」と本意にもない返事をしていた。ミーハーだと思われるのが癪だった程度には、わたしの中で彼は特別だった。周りの子たちと一緒になって彼を消費したくなかった。

「そこがいいんだよ、ミステリアスな感じとか」

 あの人がトップニュースに毎日のように躍り出ていたのは、私が中学生の時だ。母と、生まれる予定だった弟を亡くしたばかりで、わたしはおばあちゃんにもらわれた。新しい環境の中で、わたしは何かを警戒しながら、常に身構えていた。

 数ヶ月もしないうちに、市村治は悪評に塗りつぶされた。「人殺しでしょ?」「お父さんを殺して自分も死のうとしたんだって」「目が本当にヤバそうだった」と、クラスメイトは口々に囁き合っていた。

 彼女たちのおしゃべりに乗り気じゃなかったわたしは、次第に彼らから外された。露骨なことは何もされなかったけれど、一緒にご飯を食べたり、教室を移動したりする友達がずっとできなかった。

 こちらを見ながらひそひそと何か言いたげに言われることも、それにわたしが気付いた瞬間目を逸らされることも、やすりで削られるような気分だった。持ち物がなくなっていると思ったら、ゴミ箱に捨てられていたこともあった。つまらない意地を張ったわたしのせいなんだろうけど、堪えた。

 どうしても泣き出しそうなほどつらい時、わたしは彼を心のよりどころにしていた。

 わたしの非ではないバッシングを受けながら、彼はいつの間にかメディアから姿を消していた。「ごめんなさい」という言葉を最後に、何の弁明も釈明もせず。年ごろの娘らしい盲目さを持っていたわたしは、それにすごく惹かれた。

 わたしよりずっとつらい思いをしている健気な少年。賢くて美しくて、だからこそ誰にも理解されない。そんな風に美化しては、彼に心中で語りかけてきた。彼が生きているなら私だって生きられると思っていた。

 甘くて苦い少女の頃の記憶だ。

 大人になるにつれ、彼への思いは着実に薄くなっていった。

 世間も彼を語らなくなり、彼はいつの間にか私の記憶からすっかり薄れていた。

 わたしも紛れもなくミーハーのひとりだったのだと、今さら思い知る。


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