4、

 東京が灰に変わろうとしたあの冬。

 わたしが東京にいた時のことは、まだ鮮明に覚えている。

 その時わたしはまだ非力な少女だった。母の里帰り出産に向かう途中のことだ。乗っていたバスが、急に、道路の途中で止まった。

 ぞろぞろと男の人が入ってくる。お腹に響くような轟音の後、一番後ろの席にいたわたしの頬に、ぴしゃりと生温かいものが飛んだ。銃声だ、人が撃たれたのだ。わたしがそれに気が付いたのと同時に、バスの中は阿鼻叫喚に包まれた。

 パニックの最中、乱暴な運転でバスは再び走り出す。「薫、行きなさい」そう言って、母はわたしを非常扉から投げ捨てた。高速道路を走るバスから地面に転がり落ちて、わたしは打ち身と擦り傷だらけになった。痛かったし、怖かった。お母さんが恋しくて、痛む足ではバスを追いかけることもできなくて、わたしはただただ泣いていた。何をすることもできなかった。

 痛む体に鞭をうって、わたしは高速道路を降りた。廃墟ばかりの道を怯えながら歩いていると、突然誰かがわたしに声をかけた。派手な化粧をしていたけれど、優しそうな目をした女の人だった。

 心細かったわたしは、「どうしたの?」という柔らかな声に安心してしまって、ますます大声をあげて泣いた。お母さんが、お母さんが、お母さんが。泣きじゃくるわたしを女の人が抱きしめた。とても温かく、それがなおのこと母を思い出させて、寂しさと恐怖と懐かしさの波に溺れながら、わたしはずっと彼女の腕に抱かれていた。

 女の人はわたしを小さな店へと案内した。買い物の帰りだったらしい彼女は、袋の中身を冷蔵庫にしまう傍らで、わたしに温かいお茶を入れてくれた。

 自分が「東京」へと迷い込んでしまったと知ったのは、その時だった。

 東京。病に侵された旧首都。大人たちの忌避の声は常日頃から耳にしていた。

 女の人はミヤと名乗った。酒場を経営しているのだという。コートの下にはスリットの入ったドレスを着ていた。「ミヤさんどうしたんですかあ、こんないかにも訳ありって子拾ってきて」と、オフショルダーのドレスを着た別の女の人が、わたしのことをのぞき込んできた。思わず肩をすくめたら、女の人はひどく傷ついたような顔をした。ごめんなさい、とわたしはますます肩をすくめた。

「首都高の入り口の近くにいてね。あの辺り、最近あまりいい噂聞かないし、危ないでしょう。地下の子供にしては身ぎれいすぎるし」

 そう言うと、ミヤはお湯で濡らしたタオルで、泥だらけのわたしの顔を優しく拭いた。

「どうしよう、私の服じゃ大きすぎるわよね。……ジュンちゃん、悪いけど、何か見繕ってきてあげてくれない? 今なら夕市に間に合うと思うから」

「えー、今からですかあ」

 ジュン、と呼ばれた女の人は、露骨に不満そうな顔をしていた。

「女の一人歩きとか嫌ですよぉ」

「何を今さら。お店に来る暴漢、いつも張り倒しているでしょう。あなたのこと用心棒として頼りにしているのよ。――ほら、お願い。お釣りはあげるから」

「それ言われちゃったら断れないじゃないですかあ」

 もうしょうがないなー、とぼやきながら、ジュンはミヤからお金を受け取った。

「……怖い思いしたんでしょう。もう大丈夫だからね」

 ミヤにそう言われた途端、枯れるほど泣いたと思っていたのに、涙がどばっと溢れて止まらなかった。傷口に涙が沁みてすごく痛かった。

 無理に話さなくてもいいと言われていたけれど、わたしはミヤに事情を話した。それからしばらく、お店に保護をされる傍らで、わたしは母を探したいとミヤに頼んだ。ミヤはあまりいい顔をしなかった。

 直接的に言われたわけではないけれど、地下、という場所に母がいるかもしれないことを、わたしはなんとなく察した。地下が危ない場所だと言うことも。母はわたしが想像できないほど怖い目に遭っているんじゃないかと思うと、怖くて眠れなかった。どうか生きていてほしい、と祈っていた。

 父はお酒を飲んではすぐに暴れる人だった。母がわたしを連れて無理やり家を出たのは、つい一年くらい前の話。いつの間にか母は妊娠していた。十三歳下の弟と遊ぶのが、わたしはずっと楽しみだった。

 どうか生きていて。

 ずっとそう祈っていたのは、もう母はこの世にいないという確信の裏返しだったのかもしれない。

 

 わたしの噂をどこからか聞きつけたりして、母が現れるんじゃないかと思って、わたしは店の片隅に無理を言って居座っていた。店のお客さんの大半である、酔っぱらった男の人は、父を思わせるようで怖かった。だけど、乱暴なお客さんはすぐにジュンが追い払っていたし(ミヤの言っていた通り、彼女はとても腕っぷしが強かった)、わたしがバスジャックの被害者だと知るなり、「嬢ちゃん、大変だったなあ」とがしがし頭をなでられることもあった。見た目は粗暴でガサツでも、意外と心根の優しい人ばかりだった。

 店に来る人は大半が男の人だったが、その中で明らかに浮いている人もいた。白衣を着た優しげな男の人。彼はわたしを目に留めるなり、「ミヤの店ではいつから子供も働かせるようになったんですか?」と呆れ顔になっていた。

 ミヤのお客さんだったけれど、お酒を飲みにきているようではなかった。最初の一杯を世間話で終えた後、白衣の男の人とミヤさんは連れ立って奥に行ってしまう。それを見たジュンは「なんか、やらしー」と言っていて、わたしがどういう意味かと聞くと、「薫は知らなくてもいいのぉ」とはぐらかされた。

 いつだったか、白衣の男の人が、さらに若い男の子を連れてきたことがある。ミヤよりも背が低い、小柄な少年だった。話を聞く限り、大学生と言っていたので驚いた。とてもそうは見えなかった。

 無理に連れてこられたという印象で、彼は酒場の空気に完全に引いているように見えた。

 彼はしばらく、ジュンさんに絡まれたりしながら、つまらなそうにオレンジジュースを飲んでいた。わたしは膝を抱えながら彼を眺めていた。あの子はどうしてこんな場所にいるんだろうなあ、とぼんやりしていると、いつの間にか彼が目の前に立っていた。

「ねえ」

 静かな声だった。声変わりを終えたばかりのような、落ち着いているけれどしゃがれた声。

 わたしは無言で顔を上げた。髪がさらりと揺れて頬にかかった。

「なんでこんなところにいるの」

 彼の口調は平淡で、どんな感情が籠っているのかはわからない。こんな風に喋る男の子は、同年代の男子でも見たことがなかった。

「お母さんを、探してて……」

 口ごもりながら、わたしは事情を説明する。何か言いたげにも見える目は、見下ろされていると、なんだか少し怖かった。

「……見つかるといいね」

 あまりにもフラットな言い方だけれど、悪い人ではないんだろう、という感じがした。同年代の男の子がざぶんざぶんと立つ荒波だとしたら、彼は凪いだ湖のような人だった。


 だから、何日か後、彼が慌てた形相でミヤのもとに来た時、わたしはとても驚いたのだ。

 遠くから聞いていただけだったから、事情はわからない。だけど、断片的な会話から、彼とミヤが地下に行くことはわかった。

「駅地下に行くんですかっ」

 気が付くと、彼らの会話にそう言って割り込んでいた。

「わたしも行かせてください」

 すごく怖かったが、覚悟は決めていた。ミヤはあからさまに渋い顔をする。

「危ないから薫はここで待っててちょうだい。遊び半分で行くところじゃないんだからね」

「遊び半分なんかじゃないです。本気です」

 泣き出しそうな自分が情けなかった。握りしめた手の甲がかすかに震えていた。

「だって、お母さんがいるかもしれないんでしょう? もしかしたら、わたしのこと、探してるかもしれない」

「だからって駅地下は子供が踏み入れていい場所じゃない。あなたに何かあったら、それこそあなたのお母さんに顔向けできないわよ。……いい子だから待ってて。すぐ戻るから。ね、お願い」

 困ったような顔でそう言われてしまうと、立つ瀬がなかった。

 わたしはソファに蹲ったまま、声を殺して泣いた。やるせなかった。あの子は大人扱いされているのに、わたしだけこんなに子ども扱いなのも、納得がいかなかった。

「……何か、お母さんの手掛かりになりものを見つけたら、君に教えるよ」

 突然、頭上から声が降ってきた。あの男の子だった。

「本当ですか?」

「約束する」

 彼は相変わらず情緒が薄かったけれど、目が少しだけ悲しげだったことは、よく覚えている。


 どうせ口だけの慰めだろうと思っていた。彼が地下に発ったあの日から、数日間、彼の姿が店に現れることはなかった。

 ミヤがおばあちゃんに連絡をとってくれたらしく、わたしも東京を離れることになった。母はたぶん、生きていない。もうあきらめなきゃいけないんだと、自分に言い聞かせていた。

 出発の準備をして、カウンター席の高い椅子に座ってミヤさんを待っていた。お店はもう何日も閉めている。ジュンは、年末年始は友達とパーティーをするのだと言って、いつの間にかいなくなってしまっていた。

 わたしが帰ったら、ミヤはひとりぼっちなのかもしれない。

 そんなことを思っていた矢先。

 店のドアが空き、彼が姿を見せた。横には女の子が一人。ミヤによく似た、けれど少し気の強そうな顔立ち。

 女の子はミヤを呼びに行ったようだった。彼が何か言いたげにこちらを見ているのには気づいていたけれど、わたしは無関心なふりをしていた。

「地下で君のお母さんを見つけたよ」

 不意に彼が言って、わたしは勢いよく顔をあげた。

 すでに事切れていた、と告げた彼の口調は、やっぱり平淡だった。

 わかりきっていたはずなのに、涙があふれて止まらなかった。取り乱しているわたしに、彼は一つのキーホルダーを差し出す。それを握らせた彼の手の動きは、壊れ物に触れるように繊細で、この人は優しい人なんだなと思った。

 キーホルダーには、若い母と七五三のときのわたしの写真が入っていた。

 わたしを見る彼の目が、ひどく同情的な色に満ちていることには、気づいていた。

「お母さんは、優しい人だった?」

 彼のその言葉を聞いた瞬間。たまらなく母に会いたくなって、だけどもう会えないんだと思って、わたしはいっそう激しく泣いた。何度も頷きながら。

「ちょっとおー何女の子泣かせてんのよ」

 冷やかすようなミヤの声。「母親が死んでいたと伝えただけです」と、彼は必要以上にそっけない言い方をする。ミヤは彼を諫め、小さい子供をあやすみたいに、よしよしとわたしを慰めた。

 そのまま、さっきの女の子も合わせて、四人で車に乗った。後部座席に乗ったわたしの隣には、彼が座っていた。彼もどこかへ向かうようだった。

 彼が車を降りようとした時。勇気を振り絞って、わたしは彼を呼び止めた。

「ありがとう、お母さんを見つけてくれて」

 彼は一瞬困ったような顔をして、それから少しだけ唇の端をあげた。笑ったんだ、とわかったのは、彼が車を降りてしまってからだった。笑顔が下手な人だった。


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