もしも願いが叶うなら

 右のモニターに映る部屋が煙で満たされ、男性の姿が見えなくなったあたりから音声が途絶えた。建物が大きく揺れて爆発音のようなものも聴こえたが、もしやそのせいで音響設備に問題が起きたのかもしれない、などと総一が考えていると左のモニターが明るくなって文字が現れた。


『これより判定結果、ならびにランキングの発表を行います!』


 反射的に視線を上げた総一は、正面奥のモニター上の壁に表示された残り時間、『10:59:56』というデジタル数字を確認した。


 手術中に発表された最初の判定が、果たして何時に行われたのか正確には覚えていないが、少なくともあれから半日と過ぎてはいないはずだ。こっちはまだ一時間ほど前に目覚めたばかりでもある。そこへイレギュラーな二度目の判定ときた。


 無茶苦茶だ。


【馬頭間 頼斗】

・規定文字数未到達 300

・作品未公開 100


 総一は左のモニターに浮かび上がった判定結果をしばし見つめ、そうか音は鳴らないのだと、正面の壁の右側に描かれた『229,480』という緑色の数字へ視線を移した。桁が大きいせいで、数値が減ったのかそうでないのか、パッと見ではいまいちわからない。どちらにせよ、負債にならなければなんだって構わない。


1位 紅 朱音 1550

2位 霧海 塔 1000


 判定結果が消え、代わりに表示された順位を見た総一は、ずいぶんと人が減ったなと率直な感想を抱いた。ランキングがポイントの高い順でないことはもうわかっている。判定で負債を抱えた者が対象なのだ。たとえ負債を抱えてもポイントで相殺できれば問題はないらしい。その証拠に自分の執筆名はランキングに入っていない。


 モニターを見ていると順位が消えて、『書籍化の意思はまだありますか?』という場違いな質問が現れた。今さら何を言っているのだ。この生きるか死ぬかの瀬戸際で、書籍化なんて知ったことじゃない。


「どうだっていい」


 内臓を盗られたり、死のリスクを背負わされたりするとわかっていれば、書籍化など望みはしなかった。


「こんなの、聞いてない……小説なんて趣味で書いてるだけで、別に本業にしようとかプロの作家になろうとか、全然そんな気ないし。そりゃ自作が書籍化されて、本屋に自分の小説が並んだら気分がいいだろうけど、それだって健康な腎臓や……腎臓、や。肺……肺肺、ハイッ!」


 自分でも気づかずに声に出して心の内を呟いていた総一は、急に込み上げてきたものを感じて息が乱れ、すべてを言い終わらぬうちに言葉を切った。


「馬頭間頼斗さん、貴方は現在、ポイント獲得数において暫定ざんてい一位となっています」


 総一は突如として部屋に響いたおかめ面の機械音声を聴いて目を見開き、顔を上げて制限時間が表示されているあたりの壁を見やった。


「他の参加者を出し抜き、もっとも優位な立場を勝ち得た貴方には、わたくしから特別に褒賞を授けたいと思います!」


 褒賞というからには良いことのはずだが、おかめ面に言われても素直に喜ぶ気にはなれない。奴が口にすると何やら不吉な言葉に聴こえる。それに、獲得したポイントは己の腎臓や肺と引き換えた結果だ。


「どんな望みでも一つだけ叶えてあげましょう」


 おかめ面のザラついた機械音声を耳にし、その意味を咀嚼して理解するなり総一は思わず立ち上がっていた。奴は今、どんな望みでも、と言ったのだろうか。


「さぁ! 大きな声で、はっきりと、正確に貴方の望みを言ってください」


 総一は座っていたスツールにラップトップを置くと、どういうわけか身体が前方の床へ引っ張られるような感覚に陥り、倒れまいと抗いながら一歩二歩とモニターへ近づいていった。


 なんだろう。口元と頬のあたりがおかしい。くちびるを閉じておくことができない。表情筋が痙攣しているように感じる。


「じ」と口にしてうまく声が出ず、総一は唾で喉を湿らせてから「自由」と単語だけを吐き出した。解放さえしてくれればそれでいい。ここで起きたことはすべて忘れるし、警察にだって駆け込まない。もちろん、誰にも口外しないで墓場まで持っていく。


「もう一度、大きな声で、正確にどうぞ」


「ここ、この部屋から出して、俺の……稲葉総一の、アパートの部屋へ帰らせてくれッ!」


 それは不可能だ、という返答があるやもしれぬ。おかめ面はショーが始まってからというもの、ルールの改変、判定時刻の繰り上げ、それから行きすぎた刑罰と、主催者の立場を利用して傍若無人の限りを尽くしているのだ。期待をするほうがどうかしている。


「わかりました」


「わか、え?」


 釣られて声を発した総一は、期待していたはずの返答を聴いたにも関わらず、己が耳にした言葉をにわかには信じることができなかった。と聴こえたが、聞き間違いや空耳ではないだろうか。


「貴方の望みは、貴方のいるその部屋から出て、稲葉総一、もとい馬頭間頼斗氏のアパートの部屋へ帰りたいと、こういうわけですね?」


 は馬頭間ではなく稲葉総一に使われるべきだが、今は細かいことにこだわっている場合ではない。


「そそ、そう、そうです! おっしゃる通りッ! うちへ、うち、うちへ帰らせッ、ださい! おね、お願いしますッ!」


 言葉遣いの狂いなど気にしてはいられない。一刻も早く願いを叶えてもらい、アパートの自室へ帰るのだ。そうしたらもう小説を書くのはやめよう。たとえDMに気をつけていたとしても、業界に関わっていればまたいつ何時なんどき、どういった形でこのような現実離れした事態に巻き込まれるかもわからない。


「望みの予想はついていましたので、ほとんどの準備は整っています」


 連中の段取りがいいのは刑罰の執行だけではないらしい。


「それじゃ俺」


「それでは馬頭間頼斗さん、しばしの休息を」


「帰れ、え?」


 言葉を遮られただけでなく、しばしの休息などとわけのわからないことを言われ、すでに最大限に膨らんでいた総一の期待は、風船のようにしぼんでいく代わりに一瞬にしてフッと掻き消えた。


 待っていろ、という意味だろうか。直前にほとんどの準備は整っていると言ったばかりではなかったか。


 減っていく制限時間を見つめながら、混乱した頭で呆然と立ち尽くしていた総一は、気体が噴出しているような音が聴こえるのに気づいて身体を震わせ、まさか毒ガスでも漏れているのかと、視認できないことも忘れて背後を振り返った。




 使い慣れた毛布の懐かしい匂いと、背中を押し返す硬めのマットレスの感触に、ここがアパートの自室であると安心感を覚えた総一は、あと少しだけ惰眠を貪ろうと寝返りを打とうとしたものの、そこへ走った左脇腹の激痛に文字通り飛び起きた。


 白一色の異様な部屋。


 あの忌まわしい空間が目に入るのではと思ったが、家具も壁紙のシミもフローリングの床に散乱したゴミも、すべて間違いなく自分の部屋のものである。帰ってきた。生きて帰ってこられたのだ、あの悪夢のような場所から。


 ひょっとしてよくできた夢なのではないかと、総一はセーターの裾を捲り上げて左脇腹と右脇下付近の傷口をそれぞれ確認した。さすがに傷口まで仔細に再現される夢はないだろう。鈍い痛みも身体の両側に確かにある。


 時間は何時かと壁に掛かったアナログ時計を見上げる。十一時五十五分。昼かと思ったら蛍光灯の明かりだ。見れば窓のカーテンは閉まっている。あの部屋で最後に意識があったのは昼間だった。ということは、およそ半日、もしくは丸一日半ほど眠っていた計算となる。


 状況を把握して落ち着いてくると、コンビニのバイトはクビかもしれない、と身体の状態よりも収入源の心配が総一の脳裏をよぎった。貯金はほんのわずかしかない。労災は申請できないし、失業手当も望めないだろう。それに、この身体では当分のあいだは働けないのではないか。


 湧き上がる不安から消極的な考えに襲われた総一は、ひとまず夜風にでも当たって気分をリフレッシュしようと思い、ベッドから出てカーテンを開けたところで動きを止めた。


 窓から見える外が明るい。さっきは深夜かと思ったのだが、実際には正午が近いようだ。それはいい。明るさが問題なのではない。どう表現していいのか、いつも目にしている外の景色からなんとなく妙な印象を受ける。


 総一は違和感の正体を突き止めようと、ベランダへと続く掃き出し窓に手をかけた。

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