四肢舞い

 トイレのアンモニア臭と、理科室を思わせる酢酸のような匂いがする。やたら暗いが、曇っているのだろうか。顔を上げると、どんよりとした暗雲が垂れ込めているのが見えた。原稿用紙を買いに行かなければならないのだ、と総一が路地を歩き出す。


 待てよ。国道沿いの本屋は潰れたのではなかったか。ならば、スーパー内藤のそばを通るのではなく、中学校近くの県道を行かねばならない。予定よりずいぶん遠くなる。加えて、雨も降りそうだというのに、傘を忘れるなんてうっかりしていた。


 かといって、わざわざ傘を取りに家へ帰るのも面倒である。大丈夫。サッと行って、サッと戻ってくればいい。遠いとはいえ徒歩圏内だ。往復と買い物で二十分もあれば足りる。


 きびすを返して路地を左へ曲がる。未舗装の路面には大小様々な瓦礫が落ちていて歩きづらい。サンダルなど履いてくるのではなかった。道路の右側に軒を連ねる家屋へ目をやる。屋根伝いに移動する猿が見えた。たしか、この辺りの野生は絶滅したはずだ。


 文房具屋まで案内してくれるのかもしれない。チンパンジーよりは劣るだろうが、猿だって賢い動物だ。彼、もしくは彼女が、この辺り一帯を仕切るボス猿で、元締めでありながら通行人の案内役を兼ねている可能性もある。郷に入っては郷に従うと言うではないか。ここはこの猿に任せてみたほうがいいだろう。


 背後でどろどろという低い音が鳴っているのも気になるのだが、左の脇腹の調子がどうもおかしい。誰かに腹に手を突っ込まれて、内臓を掻き混ぜられているような、奇妙な気持ちの悪さを感じる。


 オイ、こっちでいいのか? と屋根の上を軽快に移動していく猿を見ながら念じてみた。猿からの念波返信はなかったが、何となく「黙ってついてこい、余所者よそものが」と思ったのだと感じた。


 流れの速い黒い雲を見上げていた俺は、このどろどろいっている音の出所が、まさに頭上のそれが移動する際に出しているものだと気がついた。いつのまにか暗雲は足首の辺りにまで充満してきている。ここまで質量の重いタイプは滅多にない。


 旦那、喰わせ峠に寄られるんで? と猿が脳内に話しかけてきたので、時間があればやぶさかではないが手持ちがないのだ、と総一も念で答えた。団子茶屋かタコ焼き屋の露店が出ていれば文句はない、と付け加える。何やら息苦しさを感じるのは疲れているからだろうか。一休みしたくて堪らない。


 収穫の時期がズレちゃあいませんかねぇ? などとなおも猿が話しかけてきた。いいから早く案内してくれ。脇腹がもう限界なんだ、と猿に懇願する。この際、何にだって頭を下げるさ。


 旦那、つきやしたぜ。キキッ! と猿がやるので、お代はいいのかと訊ねると、そんなもの、いつも通りとっくに頂戴していますよ! とおかしなことを言った。この猿とは初対面なのだ。


 ホームセンターに売っているものなら、大抵はうちでも代理配送できますぜ、と猿が言う。俺にはまだ必要ない。だからロープを解いてくれないか、と猿に下手したてに出てみた。


 気づけば俺は首と四肢をロープで縛られており、それぞれの先端が五つの方向へと伸びているようだが、その先が何に繋がってるいるのかまでは暗くて見えない。


 なあ、左の脇腹に違和感があるんだ。ぽっかりと穴が空いてしまっているような、そういった空虚さを感じる類の、と猿に告げる。言葉を理解してくれる奴の知能の高さに、俺は感謝しなければいけないだろう。言葉が通じるだけで心に余裕ができる。


 やめてくださいよ、旦那。ぽっかりと穴が空くのは、腹じゃあなくってもうちょい上にある胸だって、先代の前の前の前の猿太郎えんたろうの代からずうっと決まってるじゃあないですかい、と猿がぴょんぴょん飛び跳ねながら俺の周囲をまわりはじめた。


 やめろ! 危ない。ロープに引っかかるじゃないか。これはただの縄とは素材の強度が違うんだ。足でも引っかけたら大変なことになるぞ、と俺は猿に注意を促した。本当のところ、猿がどうなろうと知ったこっちゃない。


 ところで、先ほどから疑問に思っていたのだが、俺はここへ何をしにきたのだったか。


 誰かに追いかけられていなかっただろうか。違う、逆だ。追いかけていた、何者かを。すごく遠いところだが、辿り着けない距離ではないとおかめが言っていた。


 ともかく、動くためには身体を縛るロープをどうにかする必要がある。だが、猿にほどかせることはできない。奴はやればできる猿なだけに、下手に命令すると機嫌を損ねて帰ってしまうのだ。そんなリスクは冒せない。


 それじゃあ、旦那。始めますよ! という猿の声が脳内に響き、テレパシーはやめてくれ、と俺は言い返した。猿の声を聴くと頭が割れそうに痛くなるのだ。そんなことより、刺激臭が酷い。公衆トイレの前に立っているかのようだ。


 いきますよ、それッ! と猿の掛け声が聴こえ、身体が浮いたように感じた。




 衝撃で目が覚めた。額の上部が痛む。身体を反転させて仰向けになり、総一は右手を伸ばして左の脇腹に触れた。何かおかしい。さすっているうちに湿り気を感じ、薄く目を開けて眼前にかざした指先を見る。天井の蛍光灯が眩しくてよく見えない、と再び目を閉じる。


 この異臭と息苦しさは何だ。起き上がろうとしているのに、うまく力が入らず身体が動かない。ベッドから落ちてどこか痛めたのか。それに床の感触が自室と違う。


 無理やり目を開けて部屋を見まわす。白い壁とモニター、かたわらのオフィスチェアが目に入り、自分が瀧田川出版に監禁され、命を賭した悪質なショーに参加させられていることを総一は急速に思い出した。


 腎臓を取られたのだ。理由もよくわからないまま。もう一度、左の脇腹へと手をやる。おそらく、椅子から落ちた衝撃で、縫合された傷口が開いて出血したのだろう。


 施術中に気絶してしまったらしい。それとも、麻酔の効果が遅れてきて眠りに落ちたのだろうか。今さらどちらでもいいことだ。気になるのは残りのタイムミットである、と総一は左側の壁にあるモニターの上部へ視線を投げた。


『12:10:16』


 最後に見たときには十八時間ほど残っていた。ということは、手術を受けてから六時間も経っていることになる。やはり麻酔はあとから効いたのか。そのまま視線をモニターの右側にあたる、奥の壁へと移して目を細めた。大きな緑色の数字が描かれているがよく見えない。


 時間をかけて上半身を起こし、ようやく緑色の数字を確認すると『229,780』とあった。おかしい。腎臓のポイントは『131,000』だったはずだ。これでは数字が合わない。


 呼吸のしづらさに顔を顰めた総一は、ふと腎臓を摘出している最中に、さらにもう一つ臓器を差し出すよう要求された場面を思い起こし、今度は左手で右の脇の下に近い肋骨に触れた。違和感がある。残念ながら、右の肺を摘出されたのは夢ではなかったらしい。


 書籍化の打診を受けてきてみれば、監禁されて強制的に健康な臓器を二つも摘出されるという、とても現実とは思えない非人道的な目に遭わされている。


 とても生きて帰れそうな気がしない。


 俺はどこで選択を間違えた。


 小説なんてただの趣味だ。少しばかり手の込んだ遊びと変わらない。書籍化だって、楽しんで適当に執筆するかたわら、あわよくば叶えばいいと思っていた程度だ。売り上げで印税が入り、纏まった金ができたら、それを資本金にしてトレーダーをしながら東南アジアで楽に生きる。小説家で食っていく気などない。


 それがこのザマだ。


 甘い餌に釣られ、のこのこと出てきた自分にも落ち度がある。注意力が足りなかった。今にして思えば、常にランキング上位にある己の作品を過大評価し、おごっていた部分も多少あったのだろう。おかげで客観的に自作を見れず、それゆえこのような典型的な罠にはまってしまった。


 だが、今は自省に時間を割き、己の境遇を嘆いている場合ではない。俺はまだ生きていて、タイムリミットも半日ほどある。脱出できる可能性が残されているのなら、死ぬまで抗うまでだ。


 落としたはずのラップトップはどこかと総一が首をまわすと、いつのまに出現したのか、背後の少し離れた位置に立っている白いスツールの上にそれを見つけた。もし落下して壊れていたら、ここでのデータの取り出しは不可能だっただろう。つまり、活路はまだ閉ざされていないということだ。


 総一は座ったままゆっくりと身体の向きを回転させ、ぎこちない動作でスツールへと近づいていき、倒れこむようにして自分のラップトップへ取りついた。

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