翼と炎
割れた地層から炎が噴き上がった。驟雨さながらに天へ向けて迸る無数の火の粉は地上に存在していたあらゆるものを撃ち落とし、更なる炎が猛る裂け目へ投げ込んだ。
ノーアは地震で立っていられず、レアを抱き締めてうずくまっていた。第六感は岩盤の下で蠢動する凄まじい炎を察知した。何が起きている? おれはどうすればいい? 表情から察するにレアも同じような事を考えているらしい。
瞬間、轟音。
地鳴りというには苛烈に過ぎる、
亀裂が速やかに地を覆い、裂けた。
何かを察したレアがノーアの腕の中で翼を動かし、宙に浮いた。ノーアは落ちると思ったが、右腕をレアが咄嗟に掴んだ為に宙ぶらりんの格好になった。
「何で――」言いかけて、やめた。今はそれどころではない。「レア、おれの事はいい! 手を離すんだ! このままじゃ二人とも道連れに――」
「なんで、そんな事言うのっ!」レアが叫んだ。「何の為にあなたの手を取ったと思ってるの!? ずっと一緒にいようって、約束したのに、あれは嘘だったの!?」白濁した目から透明な涙が流れ、ノーアの手に
「そんな、つもりは」ないと言い切る前に、燃え盛る炎がひと塊、矢のように唸りを上げながらレア目掛けて飛んで来た。ノーアは直感した、これは明確に自分達を狙っている、他の者と同様に撃墜し、地獄に引き摺り込もうとしていると。
肘から先の無くなった左腕を炎に向けた。自分の作り出す炎が盾となる事を祈り、信じた。
果たして、それは叶った。
ノーアの炎は燃える矢を阻んだ。同じ力が源流にあるが故に互いに干渉出来るのだ――脳髄の奥で眠っていた知識が伝えていた。しかし、地獄よりの使者は執念深かった。第二、第三の炎が迫っていた。そうか、これがおれの
ノーアは力を使い過ぎないように気を配りつつ、辺りを見回した。大分離れた所に、炎の沼の岸があった。「あっちだ。向こうにはまだ地面がある」レアと繋いだ手をそちらの方角へ引っ張った。レアは小さく頷くと方向転換をした。
真珠色の、蝙蝠に似た翼が炎に照らされて玄妙な輝きを放った。さっきの光の柱よりこっちの方が好きだな、とは思っても口には出さなかった。
「――さて」今や
「やっと、やっと終わる。
最初の一瞬、彼にはそれが何だか分からなかった。見た事がないものだった。次の一瞬で悟った。地獄の炎の煌めきだ。成程、と独り言ちた。確かにこの美しさは誰かと分かち合いたくなる。
最後の一人を迎えると、裂け目は再び轟音と共に閉じてゆき、
ノーアは見た事のない景色の中に立っていた。辺りにはレアの姿がない。名前を呼ぼうとして、自分を呼ぶ声を聞いた。
「久しいな、息子よ」自然に出来た物か人工物か判別のつかない奇妙な柵の向こう側にいたのは父と母、その横に不機嫌そうな顔の
「そんな事はありません。中身はそっくりですよ、誰かさんに」テレジアもまた、両目と五指が揃った姿だった。
「皆同じ穴の貉だわ」アルは不貞腐れた顔のまま言った。「あたしだけ仲間外れ」
「それが、そうでもないのだ。お前だって間違いなく私達の娘だ」
「どういう意味?」
「――いや、ちょっと待ってくれ」ノーアは三人の会話を遮った。「ここは何処なんだ? レアは何処にいる? 何故ここに皆がいるんだ?」疑問は矢継ぎ早に口から溢れた。
「順番に答えてやろう」アーヴィッドは指を一本立てて見せた。「
「この柵は何なんだ? おれは、そっちへ行けないのか?」それは木の枝にも、金属にも見えた。
「お前は未だ死んではいない。故に、柵の向こう側にいる。お前が死んだ時、柵はお前を中に招くだろう」
「何で、死んでもいないのにここにいるんだ」
「あなたは力を使い過ぎました」それに答えたのはテレジアだ。「それに、先程まで文字通り地獄の釜の蓋が開いていたのです。生と死の境が混線し、消耗した魂が迷い込む事も有り得ない話ではないでしょう」
「案ずる事はない」アーヴィッドが穏やかに言った。「休息によって体力を回復すれば、また元の世界に戻る。世界で最後のアールヴとして、存分に人生を謳歌してからでもこちらに来るのは遅くない」
「……最後?」
「堕天使達はこの世界の住人を鏖殺する事を目論んでいたのです。そして、それは実行されました。しかし、あなただけは逃げ切った。本当に、運が良い」
「それって運が良いのかなあ」皆死んだというのはどうも信じ難い話に思えた。
「とにかく」アルが舌を突き出した。「あんたはあたしを殺した言い訳を考えながら残りの人生を生きろって事。納得のいく話が出来なかったら、ただじゃおかないんだから」
「お前が先に殺そうとしたんだろ」急に視界が滲み始め、家族の輪郭が曖昧になった。まるで夢から覚める時みたいだ、現実のおれの顔に何かの感覚がある。待ってくれ、まだ話したい事はあるんだ、
「ヨーゼファ叔母さんによろしく伝え――」
――。
顔の上を、何かが這い回っている。ノーアはそう感じた。虫か何かだろうと手で払い除けようとして、左手を失った事を思い出した。右手を動かすとやけに大きな物体が手の甲に当たった。
そこでようやく目が開いた。赤い軟体。その向こうに、見慣れた顔。レアだった。レアがその舌で、ノーアの顔を嘗め回していたのだ。
「ノーア? 起きた?」舌がするすると口の中に戻って行き、代わりに言葉が吐き出された。「起きたならそう言って」
「ああ、うん。起きたよ。おかげ様で」顔を拭くべきか迷いながら上体を起こした。鋭角的な岩や礫がそこら中に撒き散らされ、元の情景を想像する事さえ困難な景色がどこまでも広がっていた。
「心配したんだよ。突然何にも言わなくなっちゃって。……」その目に涙がこみ上げ、止める間もなく頬を滑り落ちた。「良かったよう。ノーアが生きてて」それだけ言うと、彼女は子供のように泣き出した。
「助けてくれてありがとう」ノーアは右腕でレアをきつく抱いた。その体は驚く程柔らかく、
「……ごめんね。もう大丈夫」しばらくしてレアが顔を上げると、泣き腫らした目がそこにあった。目が合ったような気がしたが、勘違いのようだった。「これからどうしよう?」
ノーアは少し考えてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「取り合えず、生きる道を探そう。
そうして、二人は歩き始めた。二人きりの世界を阻む壁はもう何処にもない。
「罪と罰の先へ……ねぇ」ラボラスが朝日を浴びながら呟いた。その衣服は所々焼けたり、焦げたりしている。死に物狂いで炎から逃げ続けた証だ。その腕の中には、布で
この子はどんな子に育つだろう? 何を教えてあげよう? 不可視の翼は太陽光を乱反射させ、まるでこの子が聖なる存在であるかのような後光を作り出していた。いや、わたしにとって
ふいに、赤子が顔を歪めて弱々しく泣き出した。ああ、そう言えば昨夜から何も食べさせていないんだった。
「……あー、赤ちゃんって、何を上げればいいんだっけ……」食料の事まで頭が回っていなかった。普通の動物だったら、乳とか? でもそんなの出るわけ――
母は犬歯を指先に宛がい、皮膚を食い破った。赤い血がとろりと流れ出す。その指を赤子の口へ持って行くと、子は母の指を握り、血を吸い始めた。
きっと、大丈夫。生きていける。ラボラスは己の人生において最大級の喜びを感じていた。
軌道に外れた魂よ、君達の運命を
そして君達の胎内の無窮をのがれて駆けまわれ!
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