地獄に堕ちた人々

 食堂カフェテリアは夕食の配膳の最中だった。突然の地鳴りと、次いで大きな揺れ。誰も立っていられない。煮込みの入った鉢が飛び、うねる床に中身をぶちまけていた。

 ポーリアは転んで顔から床に突っ込んだ姿勢から起き上がる事が出来ずにいた。怒号や悲鳴は耳に入らない。

 ――ああ、これだ。これだったんだよ私が感じていたものは。違和感という言葉とも違う、という直感。地精コボルトを祖とする彼女の家系に眠っていた気質がある種の先祖返りによってポーリアに表れ、この地を横断する断層の存在を察知させていたのだ。断層が急激に動き始めているのを感じる、まるで大陸そのものが巨大な生き物の顔面で、その口を開こうとしているように。

 不安はなかった。晴れやかな気持ちを顔に出す事なく、彼女は還るべき場所に思いを馳せた。ふとと思い付いた。畝を幾つも作って、そこに色とりどりの花の種を蒔く。花は余計な事を喋くったりしない、きっと自分に合うはずだ。と祖先が教えていた。







 その獣人ヴェアヴォルフは最近この仕事に就いたばかりで、まだ手際が良いとは言えなかった。本来なら道具を片付けて引き上げねばならない所だが、彼はまだ残って仕事を続けていた。基本的に一人で行う仕事であるため、それを咎める者はいなかった。随分暗くなってきたから、そろそろ帰ろうかな。そんな事を考えていた矢先に、巨大な地震が襲い掛かった。

 彼はバランスを崩し尻餅をついた。何が起こっているのかと辺りを見回して、先程まで点検していた飛翔機が滅茶苦茶なリズムで揺れているのを知った。周囲の機体を巻き込みながら横倒しになったりひっくり返る車両も出始め、それは彼の目の前の車両もだった。

 圧し潰される寸前、彼は兄の名を呼んだ。ある日突然いなくなって、誰もその理由を説明出来なかった前任者を。








 かつてアイズベルクと名乗った少女は狭い暗室に横たわっていた。闇黒に支配されていた彼女の精神が、一時の自由を得た。天使達が外の世界で次々に魂を引き剥がされ、それに伴い彼らが施した術式も力を失った――などと、知る由もない。

 彼女は宵の空に飛んで行く、無数の輝くバーボチカを幻視した。大きさも色も様々で、まるでラードゥガの柱が突然現れたような光景だった。何故そんなものが見えたのかなんて、彼女にはどうでもいい事だった。天使が施した延命の術式も崩れ、死が彼女を呑み込むべく待ち構えていた。

 嗚呼、と彼女は想う。なんて綺麗なのクラシーヴィ

 闇に呑まれる寸前、彼女は目映いスヴェートを見た。







 リアが投げ捨てた檻から蝶が飛び出した。それが始まりだった。

 この日の為に至る所に仕掛けられた解放リベラシオンの術式が展開して波濤の如く周囲に広がり、あらゆる天使アポートルを巻き込んだ。

 術式は魂と肉体を繋ぐ精神を焼灼し、戒めを失くした魂は己の還る場所を思い出した。

 そうだ、やっと思い出したぞ。『私』達はずっとあの空の向こうへ帰りたいと願っていたんだ。どうして今まで忘れていたんだろう。私達の故郷、私達の安らぎ。

 プシュケーは上空を目指して一心不乱に羽をはためかした。天蓋を穿てペーセ・ル・シエルとばかりに数えきれない程の蝶が飛び立つ様は、さながら極彩色の光の柱だ。

 他種族にとってそれは、破滅を告げる宣告に他ならなかった。




 アンドレアはリアの体に縋って立ち上がった。リアはびくともしない。

「目が見えないのをこんなに悔しく思った事はない、な。きっと素晴らしい景色、だろう?」

「ええ、それは勿論、独り占めするのが勿体ないくらいステキな眺めですよ」実際はアンドレアにも光の渦以上のものは見えなくなっていたが、嘘をついた。

「強欲なキミが『独り占めは勿体ない』、か」

 地はいよいよその下にあるものを見せ始めていた。そこには炎があった。くらい簡単に成し遂げるであろう程の、まさしく地獄の業火が地上の有象無象を無差別に燃える舌で掬い取っていた。

 燃え尽きる直前の蝋燭がほんの少しの間強く燃え盛るが如くに、アンドレアの生命力が視力を彼に与えた。彼は業火を見て、その虜になった。これこそ私の原風景、他の分化生命体クローンを炉に押し込んだ時に夢見たもの。思わず感嘆の吐息が零れる、束の間体の痛みさえ忘れた。早く私もあそこへ行って、という衝動が彼を支配した。とにかくもう早く行きたくて堪らなくなった。

「まだここにいるおつもりで?」

「うん。ボクは殿しんがりがいいだろうと思ってね。取りこぼしのないようにしたいから。全住民の抹殺、文明の破壊はそれで完成される。父祖を縛っていたしれいを一つ残らず砕くのがボクの使命だ」

「では私は一足お先に行かせてもらいましょうか」アンドレアは戦車から身を乗り出した。「でまたお会いしましょう。貴方に会えて本当に良かった」

さよならオ・ルヴォワール、ボクの悪友アンドレア」リアは静かに答えた。

 翼はほとんどその機能を失っていたが、アンドレアにはどうでも良い事だった。何故なら、あとは引力に任せて落ちれば良いだけだからだ。天を望む天使達とは違い、地に堕ちる事を望むのが堕天使デシュだ。

「――どいつもこいつも気狂いの莫迦ばっかり」堕ちながら、彼はラボラスを、他の堕天使達の事を思った。ラボラスの思想は彼には最後まで理解出来なかった。他の連中は何だか凄そうという雰囲気につられるだけのうすのろばかりにしか――ああ、レアはどうしているだろう? これ以上の幸せなんてないのに、差し伸べた手を取らないで。

「なら、私だって気狂いの莫迦なのさ。そうでないと誰が言える?」彼は目一杯腕を広げた。過去、未来、全てを受け入れて抱き締める為に。

「我が真の名は孔雀明王マリク・タウス!」

 彼は炎と、冥府の住人達と一つになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る