記録機

 腹の中で漏れた血が揺れるのを感じる。アンドレアは空前の苦痛を文字通り抱えながらどうにか己の屋敷に辿り着き、入り口の前にラボラスが立っている事に気付いた。

「へえ」平時は陰鬱な顔が奇妙に引き攣った。どうやら笑っているらしい。彼女が笑うのは初めて見た。「あんたもそんな顔出来るんだ。誰にやられたの」

「小娘に手酷く振られましてね。医務官メドサンを呼ばなくては」アンドレアは笑ってみせたつもりだった。上手く出来たかは分からなかった。

「そっか。うんうん、何でも呼んだらいいよ。でもその前に一つ教えて」

「はい、何でしょう?」

「――こうすれば、あんたは死んでくれるのかい」

 胸に灼けるような感覚。見ればラボラスの偽装が解かれ、獣めいた爪を持つ五指がそこに食い込んでいた。

 アンドレアは人から攻撃を受ける事に慣れていなかった。大体はで先読みして避けるか、自分から仕掛ける時も不意を打つのが常だった。先刻のレアに負わされた怪我も良くなかった、を彼女の方に向ける余裕が失われていたのだ。

「……何故?」彼の口から血と疑問が零れた。

「いつだったか、あんたと話した事があったね。分化生命体はそざいの提供者にとって同一存在もうひとりのじぶんか、別の存在こどもか。あんたは同一じぶんだと答えた。だから、私の考えは永遠に分からないよ」爪が心臓クールに到達し、突き破る。あ、な、初めての感覚だが確信出来た。

「私は私の子供と生きていく。名前も付けたんだ、ヒカルリュミエールって。あんた達と同じ所には行けない。あんたが死ねば他の堕天使デシュは烏合の衆だ、そうでしょ。リアはあの場所から動けない、あんた達の計画は失敗する。さよならアデュー

 引き抜いた手には赤黒い組織片が付着していた。ラボラスはくるりと背を向けると走り出し、振り返る事はなかった。

 アンドレアは無性に笑いがこみ上げてきた。なんと馬鹿げた喜劇コミだろう。去って行くラボラスの背に向かって叫んだ。

「貴女は誤解をしていますよ、こんなものでは私は止まりませんよ! 私は、心の臓一つ潰したくらいでは殺せないのです! ああ痛い、なんて痛みだ、! それに、私が死んだとしても計画は頓挫したりしませんよ! 周到に積み上げて来たのですから! 破滅カタストロフ星辰デスティネによって示されたもの、一個人の足掻きで変更になったりしない! さよならアデュー父なし子の母マリアよ、子供あなたのてんしにその血肉を残らず捧げるが良いでしょう!」

 血の巡りが狂い、脳髄は眠るように機能不全に陥っていく。やっぱり死ぬな、これ/こんなもので死ぬものかよ/私が足を止め、憩うのは地獄の業火によってのみ――纏まりのない矛盾した思考Doublethinkが展開される。脳髄の何処かが歌を再生し始めた。楽曲記録機アンレジストレに収録されていた、お気に入りの曲。



総統閣下が仰せになる、我らは支配種族だとWhen der Fuehrer says we is de master race


我らは閣下のご尊顔に向かって万歳をしようWe heil, heil, in der Fuehrer's face


総統閣下を愛さぬは大いなる不名誉だ、Not to love der Fuehrer is a great disgrace


だから我らは万歳をするのだ、So we heil, heil


閣下のご尊顔に向かって! right in der Fuehrer's face




 前に進もうとして、足がもつれた。顔面から地面に突っ込む。笑いが止まらない。私は道化アルルカンだ/それを演じる人形ポリシネルだ。



我らは超人ではないか?Are we not the Supermen?


純粋にして選民たる超人だろう?Aryan pure Supermen?


そうとも我らは超人だJa, we ist Supermen


弩級に間抜けな超人だ!Super duper Supermen


ここは素敵な所でしょう?Is this Nutsy land so good?


ほんとは逃げ出したいんでしょう?Would you leave it if you could?


はい、ここはとっても素敵ですJa, Nutsy land is good


ほんとは逃げ出したいんですWe would leave it if we could.



我らは世界に新たな秩序を齎すWe bring the world new order――」歌を口にすると、併せて鮮血が流れた。



誰もがみなEveryone of foreign race

  彼を愛さずにはいられなくなる、 will love der Fuehrer's face


我らが世界にWhen we bring to

  この無秩序を齎した暁には!the world this/dis-oder!



倒れたまま、這って進む事にした。翼の推進力を上方ではなく前方に向ける。その有様を碧い目が俯瞰した。芋虫キャタピラーみたいだ、そう思って笑い転げた。ああ、つまり、私の本質エッセンスはこれなのだ。阿呆イディオのように笑い続ける、死に瀕してさえも!



総統閣下は絶叫する、When der Fuehrer yells

  『もっと砲弾が必要だ!』I gotta have more shells


万歳! 総統閣下万歳!We heil, heil


彼の為に我らはどんどん砲弾を作るFor him we make more shells


弾の一つがIf one little shell

  彼を地獄まで吹っ飛ばしてくれたならshould blow him right to hell


万歳!総統万歳!We heil, heil,


素敵な事だと思いませんか?And wouldn't that be swell?



「私、は――」命令で造られた砲弾だ/地獄へ飛ばされる総統NOMOLOSだ/そのどちらでもあり/どちらでもない/統率者フューラーって誰なんだろう/総統NOMOLOSは空の彼方にしかいないのに/「偏執病パラノイアというより、分裂症スキゾフレニーだな」/あれ、今のは私が言ったんじゃないな/ラボラスか/リアか/また別の誰かだったか/どうでもいいやそんなの/やはり私が言ったのかも。

 が一つずつ閉じていくのを感じた。残ったは恨めしげに彼を睥睨する。ああ、そうか、そうだったのか。私について離れないわたしはあの時殺した分化生命体わたしじしんだったのですね。ずっと私に憑りついていたのですね。もう大丈夫ですよ/これからもですよ。

 私はやっぱりもう駄目みたいですね。間に合うかは五分といった所。それでも最期はあすこが良い、最初に私を見出してくれたリアの傍が良い/私は意外と感傷的サンチマンタルなんだな。


 血を流し、地面を這い、汚れながら彼は進む。剥くべき玉葱は随分少なくなった、それでも最後までやり切らなくては、無粋な演出家が舞台せかいをぶち壊しにしてしまう前に。




「変わった匂い、だ。何かあったの」リアは盲目故に彼の異変に気付かない。しかしアンドレアはリアの変化を見た。祈るように固く組まれた手が解かれ、細い体の両脇に垂れている。

「そちらこそ。手、解けたんですね」

「……この世界が造られた時に生まれた法則ルールが崩壊しつつ、ある。ボクも意外だった、なんて」

「良かったですね」

「キミはいいのか、集会の司会とやらは」

「心配要りませんよ、そんな事」相手が見えていないのは分かっていたが、それでもにっこりと笑った。「私は用意周到なので。こうして死にゆく時間を友と分かち合うくらいは簡単なのです」

「そう、か」






 三十一区の外れに、放棄された聖堂カテドラルがあった。かつては『無二の王NOMOLOS』に祈りを捧げる場として用いられたそれは、誰もが自分の生活に忙殺される内に忘れられ、取り壊しもされぬまま朽ちていた。

 今、そこには人が集まっている。数は僅々百人足らず、いずれも異形の天使アポートル、即ち堕天使デシュだった。隣り合った者と言葉を交わす者、辺りをきょときょとと見回す者。予定された時間になっても集会の進行役らしき人物が現れない事を訝しむ声が少しずつ大きくなっていく、その時だった。

「静粛に。静粛に」落ち着いていながらもよく通る声が説教台の方から響いた。皆口を閉ざしてそちらを見た。誰もいない。

 説教台の上に、握り拳程の術式の塊があった。録音アンレジストレを再生する為の呪文グランマールが隙間なく積み上げられていた。それは群衆からは角度の都合で見えない所にあるだけだったのだが、彼らにそのような事が分かるはずもなかった。

「見よ。聞け。驚け。呆れよ。……」アンドレアが口述筆機ディクテに吹き込んだ声が演説を述べ始めた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る