黄金の瓶

 アンドレアは再び椅子に腰を下ろした。玉葱の皮を剥くように、言葉を拾い上げ、紡がねばならない。剥かれる暴かれるべき玉葱ことばはまだまだある、他の如何なる草木もこの役目を代替する事は出来ない。玉葱の芽は通常速やかに摘み取られる、そうしなければ、芽は人が享受すべき滋養を不当にも吸い上げ、『不滅イモータル』という本質はなことばを具えた悪の華Les Fleurs du malを咲かせるのだ。アンドレアは小さな白い花の集合に思いを馳せる。一つひとつは小さくとも、寄り集まる事で偽りの大輪の花を装う。それは千々に乱れる感情を内包する人間、あるいはそこから成る社会の原型イデアのように思えた。






 先代ちちを殺したアンドレアは、しかしその死体の処分について全く無頓着であった。砕けた頭蓋から飛び立とうとする蝶を捕らえ、倒れ伏す肉体を前にしてふとそれに気付いた。暫し考え込んだ後、一つの案を思いついた。

「食べればいいのでは?」元来天族は肉食であるのだから、というのが根拠であった。

 特に深い考えがあった訳ではなかったが、結果的には正解だった。これは他の種族はおろか当の天使アポートル達でさえ知らなかった事だが、彼らはほっそりした顎に恐るべき咬合力を具えているのだ。加えて天使は飛翔の為に骨が鳥の如く脆くなっている。これ故に天使は直接戦闘行為に参加せず、竜人メリュジーヌを代理として配置するのが習慣化していた。誰も天使が血腥い争いは出来ないと思い込んでいた。そこに、奇形たるアンドレアである。彼はあっさりと空になった器したいの指を食い千切り、その味に目を見張った。丁寧に加工された長耳ラパンが持ち得ない風味と歯応え。、と彼は思った。新鮮な命を丸ごと頬張る事の、何たる甘美、何たる歓喜! 夢中で貪った、部屋に迂闊に入って来る者はいないと分かっていた、だからこそ殺害を実行したのだ。行儀作法は放り捨て、床に零れた血と脳漿まで舐め取った。

 全て食べ尽くした彼に去来したものは、という欲望だった。腹は限界まで膨れ、喉の奥まで内容物がせり上がるのを感じながらも、悪徳そのものたるその味は無限に味わっていたいと思えるものだった。

 真っ赤に染まった自分の指をしゃぶりながら、彼はその衝動と如何に向き合うかを考えた。単純な抑圧は出来まい――彼は今まで何かを我慢した事がない。監督官向けのカリキュラムを史上最高の成績でパスした彼は全ての振る舞いがと称されていた。まるで何もかもそのように設計された術式のように。

 慌てる事はない。彼は自分に言い聞かせた。少なくとも今、肉体的には満腹である。この記憶を反芻すれば多少の忍耐も出来よう。ああ、しかし。彼は監督官という己の役職をこの瞬間だけ恨めしく思った。主な相手は地族エーアトロイテの子供達や軽微な罪を犯した者達であり、天族えものと関わる機会は然程多くないからである。






 魂が持つ記憶ををしつつ仕事をこなすのは彼にとっては苦労の内にも入らぬ事だった。

 ある日、アンドレアが日中の業務を終えて執務室に戻ると窓辺に小鳥が止まっていた。それは伝令メサジェの術式だった。彼が手を伸ばすと小鳥は編み細工のように解けて展開し、細長い紐のように見えるものは言葉の集まりだった。

監督官セニャールアンドレアへ、総督アミラルリアより通達 

 貴官に召喚を命ずる。これを確認次第、直ちに我が指令室クールへ来られたし。返信不要』そこまで読むと術式は霧散し消えた。

 アンドレアは困惑した。総督アミラルとは無二の王NOMOLOSに次いで最高の権力を持つ、この国の実質的な支配者である。それが中央セントラルの一区を担当するとはいえ、階級的には足元にも及ばぬ一役人たる自分をわざわざ呼ぶ理由とは何か。脳裏に先代の肉を喰らった記憶が蘇る。まさか、いや、を見られたはずがない。自分のようにでも持たぬ限りは。

 直ちに、という指令通りに彼は慌ただしく部屋を飛び出した。大した事はない/気を付けろ場合によっては事になるかもしれない/無二の王は貴方を見ている――分裂した思考が纏まりなく脳髄を揺らすのを抑える事は出来なかった。






 指令室クールは幾つも立ち並ぶ建物の最奥に最も高い塔としてそびえていた。細く入り組んだ道は、普段は往来もないだろうからと配慮を怠る設計者の思考回路に忠実だった。本来ならば『千翼貴族ミルエール』はおろか一介の監督官如きが入れる場ではないが、銀の腕輪の形をとる通行証は一度もアンドレアを阻まなかった。総督が予め設定を変更しておいたのだろう。それでも不安が消える事はなかった。むしろ『立ち入り禁止です』と警告されれば行かない言い訳も出来たのに、とさえ思った。

 がらんとしたエントランスは不気味な程清潔にして生活感がなかった。

「――下だ」上方から声がした。未成熟な、子供の声。見回せど誰もいない。首を捻っているともう一度声が響いた。

「……左手の階段を下りて、地下へ来るんだ。ボクは、そこにいる」感情のない声は弦楽器の調べにも似ていた。





 階段を降りると薄暗い通路の果てに凝土で出来た灰色の扉があった。手で触れると、分厚い扉は独りでに開いてアンドレアを招き入れた。

 室内は彼の想像以上に狭い造りだった。三人も入ればいっぱいになりそうな部屋は光に溢れていた。

 総督アミラルリアの見た目は完全に子供の天使のそれだった。アンドレアもさして長身というわけではないが、リアは更に頭一つ分背が低い。胸の前で指を組み、目を伏せ、僅かに宙に浮いていた。

「……驚いた、よ。ボクみたいなのが、他にもいるなんて」リアは目を閉じたまま口を開いた。

「はい?」

「キミ、」それは疑問ではなく断定だった。アンドレアはすぐにその真意を理解し、口端を吊り上げた。

「――へえ、貴方もなんですか」

「うん。ボクも奇形なんだ。顔に付いている方の目は、生まれつき見えない。でもその代わり、。ボクらは似ている、きっと仲良くなれると思った、だから呼んだ」リアの姿はまるで祈りを捧げているように見えた。

総督アミラルともあろうお方が、仲良しこよしがしたくて私をお呼びになったので?」

「勿論。招かれざる子、生きるべきではなかった子よ。盟約を、結ぼう。悪徳マルの教義に殉じ、この異常停止した時代error/eraに風穴を」

「成程」アンドレアはすっかりいつもの笑顔に戻っていた。「それで、私に何をお望みで?」





 それから二人は様々な事を話した。リアはアンドレアの同族殺しの欲求も知っていた。いくらでもやってもらって構わない、とリアは――その外見や声は七十二ある天使の性別の内、最も無性に近い一型であった――宣った。

「キミのは、脅威を忘れた天使達を大いに怯えさせる、だろう。彼らは生きる事についての哲学を希求する、ようになる。偽りの王NOMOLOS、に縋る生き方も辞めるはず。何の御利益もない偶像を、捨てる、多分。キミには現場にメッセージメサジェを残しておいて、欲しい。漫然と生きる日々を捨てよ、自分が何者か知りたいと叫べShout it I wanna know who I am、とね」

、ですか。やはり、無二の王なんて架空の存在だったのですね」アンドレアはうすうす感づいていた。空っぽの玉座に掲げられた虚像こそが『無二の王』の正体であり、市民を縛る鎖としての役割しか持たない事に。

「全く架空、ではないけど。のは間違いない。あれが最古の手掛かり、だ」リアが滑るように体を横にずらすとその奥に大きなかめがあった。途方もない歳月によって古ぼけていたが、元は黄金オールであったらしい。「あとで中身を見せてあげよう」

「で、ご注文はそれだけでよろしいのですか? 他に何かやらせたいからわざわざ呼んだのでしょう?」

「ああ、うん。ボクは立場上この地下から出られない、から。代わりにやってもらいたい、事がある」リアは薄い唇を舌でそっと舐めた。「生体管理官セージュファムラボラスを、仲間に引き込みたい。つまり、。余った肉の処分は一任、する」それを聞いたアンドレアは声を上げて笑った。

「総督殿は見かけによらず性悪ランキュニエでいらっしゃる」

「面白い、かな?」

「素敵ですよ。私達は仲良くなれそうですね。了解しましたダコール、どしどし仲間を増やして素敵な世界を目指しましょう」

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