無二の王

 仕事に掛ける出力を二倍にしたとしても、成果はせいぜい二割り増し程度である。エリヤはそれを痛感した。

 『解放軍リベラシオン』に引き入れられ、上位の通行証を持たされ、「好きなだけ事件の捜査をなさってください」と言われたが、本業点検が免除されるわけではない。幸いなのは車両監督がいつも不在である事、途中で抜け出しても誰にも咎められないからだ。早く仕事を終わらせる為に彼はこれまでの倍の熱心さで働いた、しかし成果はさして増えず、それでもあれこれと調べているうちに謎めいた収穫が一つあった。

 現場からなくなったものがあった。

 『無二の王が君を見ているNOMOLOS te regarde』。

 天使の住まう家屋に必ずあるというその標語が現場からは悉く消されていた。

 エリヤは槌を振るいながら考える。NOMOLOS、ノーモロース? 何かが欠けているロースなのか、いや天族語ラングドセレストの単語らしいからそうではないのだろう。それにしてもこんな単語は見た事がない。無二の王とやらが見ていると何があるのだろうか。天使アポートル以外の種族が出入りする場所にはその標語は掲示されないらしい――彼らにだけ意味のある標語?

 その日の仕事はそこで切り上げる事にした。カバンを置いて車庫を出る。

 天使アポートル達に尋ねても何も答えない。彼らは皆一様に笑顔を崩さぬままエリヤが踏み込もうとするのを拒む。しかしエリヤには行くべき所があった。天使の一人があしらうように言った言葉。

図書館ビブリオテクにでも行ってごらん」

 件の人物は言外に「どうせ獣人ルーガルーには入れやしないよ」と言わんばかりだったが、エリヤの通行証は今やだ。それが証拠に、ほら、扉にかざすと開いた。司書ビブリオテケールは居眠りをしている。前を過ぎる時は足音に気を付けるようにしたが。

 教会エグリーズの書庫を百倍にもしたような、情報の集積。壮観だった。知らず溜め息が漏れる。手近な棚から見て行こうと決めて、ある本を見つけた。

 天使アポートルの子供向けの教本だった。表紙には「竜人、エルフ、獣人、魔人の閲覧を禁ず」と赤字で大きく書かれ、その下に閲覧によって受ける刑罰が細々こまごま綴られている。構いやしない、俺はとっくに重罪人だ。エリヤはページを捲った。

 子供向けであるからか、内容は平易な言葉で構成されていた。

 曰く、「私達天使アポートルは最も優れた種族です/私達は他の種族の模範でなければなりません/一人前の天使は常に笑顔を保てるように/幸福は私達の義務です」――彼らが常に浮かべている笑顔の正体を知った。

 さらに読み進める――今度は他の種族についての記述らしい。「竜人メリュジーヌはとても力が強いので戦いや肉体労働に向いています/獣人ルーガルーは竜人程ではありませんが力が強く、一度にたくさん子供を産むので色々な仕事に使/エルフは天体観測アストロロギーのような研究職に向いている個体が多いです/魔人はどうしようもありませんが見捨ててはいけません/私達は慈悲深く全ての種族に役割を与えねばならないのです」エリヤにもした弟を含めて九人の弟妹がいる。魔人はどうしようもないとはどういう意味だろうか。少なくともアイズベルクは頭が切れるタイプに見えたが。

 エリヤは次のページに「長耳ラパン」という項目を見た。「エルフは反逆者の割合が魔人に次いで多いです/しかし彼らはです/反逆的なエルフは全身を没収して食用に回されます/彼らを加工して『ネクタル』と『アンブロシア』が造られます/日々の糧となる彼らへの感謝を持つ事が大切です」

「楽しいでしょう? 新しい事を知るのは」エリヤは二重の理由で総毛だった。一つはエルフを食用にするという記述に、もう一つは何の前触れもなく掛けられた背後からの声に。

 振り向くと監督官セニャールアンドレアがそこにいた。司書は相変わらずうたた寝をしている。

「何処から湧いて出た」仮に翼を用いて飛んで来たとしても扉の開閉音を聞き逃すはずはない。

「虫じゃあるまいし、普通に玄関から入って来たんですよ」アンドレアは笑顔のまま小首を傾げて見せた。その顔を見てもエリヤの警戒は緩まない。

「日中は忙しいんじゃなかったのか」

「貴方は私の力量を見誤っているようだ。配分を調整すれば、時間なんていくらでも作れるんですよ」

「何の用だ」

「ここは図書館です。本を読みに――と言いたい所ですが、貴方に会いに。そろそろ私に訊きたい事があるんじゃないかと思いましてね」

「訊きたい事……」目の前の人間は権力と反逆心を併せ持つ。エリヤよりも多くの事を知っているだろう。何を尋ねるべきか逡巡した後に彼は口を開いた。「ここに書いてある事は本当なのか。エルフを食用にしてる、ってのは」

「勿論本当ですとも。わざわざそんな嘘を子供に教えても仕方ないでしょう? から。我々は長い時間を掛けて刷り込みを行い、彼らエルフ。他の種族も食べられない事はないんですよ? 香草ハーブ香辛料エピスで臭み消しをしっかり行えば。私なぞは――」

「もういい」エリヤは目の前の美丈夫が怪物に見えてきた。「『無二の王』について知りたい。どこの棚を見ればいい」

「その事ですか。残念ですがかのお方について記したものはお手元のその教本くらいです。後半まで読めば分かるでしょうが、『千翼貴族ミルエール』の内のほんの一握り、いえ一つまみの者にのみ謁見の権限が与えられています。かのお方はあらゆる時間と空間を睥睨し、その内には須く我々も含まれています。何でもお見通し、だから悪い事をしたり考えたりしてはいけない、というのがあの『無二の王が君を見ているNOMOLOS te regarde』の標語の真意という訳です。他に質問は?」

 エリヤを名状しがたい恐怖が襲った。あらゆる時間と空間を睥睨? そんな絶大な存在がいるなんて想像さえした事はなかった。自分はとんでもない領域に踏み込んでしまったのではないか。地面が足元から崩れていく錯覚。手にあった本を目の前の天使怪物に押し付けると玄関を目指して駆け出した。

 入れ違いに一人の天使とすれ違った事には気付かなかった。

 長い巻き毛が背まで届くそれはどちらかと言うと女性的だった。彼女は不思議そうな顔をしてアンドレアの下へ歩み寄った。

「何、あれ。随分慌ててたみたいだけど」

「御機嫌よう、ラボラス。犬が尻尾を巻いて逃げて行っただけです、気にする事はありませんよ」

「ああそう」ラボラスと呼ばれた彼女の笑顔が。本来の気怠い表情がそこに現れた。「あんたがここにいるって、竜人の坊ちゃんエル=アセムに聞いてね。わざわざ何しに来たのか見に来たんだ」

「私は監督官セニャールです。刑罰の執行、人材の割り振り、そして子供無知なる者への教育が仕事ですから。私はいつでも仕事熱心なんですよ?」

「本気で言ってんの、それ」

。しかし少々予想が外れました。『お前は一連の天使殺人事件の真相を知っているのか』と訊いて欲しかったのですがね」

、この悪食」ラボラスは顔色を変える事なくそう言った。

「何故やったか気になりますか?」アンドレアはそれを否定しない。

「知りたくもないね」

「趣味と実益を兼ねた事業。プシュケーを捕らえ、新しい仲間を増やしていく。何の為に死語オールドスピークでメッセージを残しているか分かりますか? 我々は本来の形に立ち返らなければならないのですよ!」アンドレアの笑顔に狂気が満ちる。頬が薔薇色に上気する。ラボラスの冷めた視線をものともしない。

に縛られていてはいけない! 偽りの安寧を打ち壊し、誰もが『自分が何者か』という問いの答えを求める世界! は地の底で蠢いている、剥くべき玉葱オニオンはまだまだたくさんあるのです!」独りよがりの熱狂をラボラスは乾いた目で見つめた。

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