エル=アセム

 中央セントラルに戻る。行き先は自分の部屋ではない。第三一区の真ん中、監督官セニャールの職場兼自宅。

 レアを守らねば――。その考えだけがノーアを動かした。

 最早見慣れた玄関。戸を叩く拳に力がこもる。しかし如何なる反応もない。まだ日中、いないはずはないと彼は思い込んで何度も戸を鳴らし、ほとんど殴りつけるような勢いだった。

 何十回目かのノックが空振りした。内側から戸が開かれたのだ。

「そんなに叩かないでよう。壊れたらどうすんのさー」エル=アセムが困ったような顔をしていた。

「アンドレア。監督官。いるんだろう。会わせてくれ」ノーアの言葉で竜人メリュジーヌはさらに困った顔になった。

「えー? そんなの聞いてないよ。せんせーはお客さんが来る時はちゃんと朝の内に教えてくれるんだから」

「今すぐ用があるんだよ。ノーアが来たと言えば分かる」

「あのさー」エル=アセムは呆れ顔になった。「人に会うならあらかじめ約束ランデヴーをしておくもんだ、って監督官せんせーに習わなかった? 急に押しかけて来られても困るよ。約束してない人はお客さんじゃないから通すなって言われてるんだ」

「どうやって約束を取り付けろっつうんだ。おれは、彼に連絡する手段がないんだぞ」

「じゃあ直接会って頼めばいいんじゃない? 会って話がしたいけどいつならお暇ですか、って」

「だからその会うためにはどうやって連絡を」ノーアは苛立ちまかせの言葉を辛うじて止める事が出来た。「そうだ、あんただよ。あんたから言ってくれればいい」

「えー。オレ馬鹿だからなあ。覚えてられるかなー」

「なんで忘れるんだよ。そんな難しい事じゃあないだろう」ノーアは相手がわざと面倒事を躱そうとしていると思った。

「お兄さんには難しくないかもしれないけど、オレは違うんだよ。今の仕事だって、子供の頃から何回も教えられてようやく出来るようになったんだからさ」竜人メリュジーヌは総じて身長が高い、エル=アセムもその例に漏れず戸口に頭がぶつかりそうな程大柄だ。ノーアは顔を上げて相手の顔を見る格好になった。

 ふざけた調子はその目には見当たらなかった。






 気持ちが焦るのと裏腹に『呼び出し』はそれから二日後だった。終業の音楽が鳴り出す――同じ建物の別の部署が作成したものだ――その時、生成りの服を透かして青い光が直線状に伸びた。慌ててそれを服ごと握り込む。幸い誰もノーアを見ていなかった。ポーリアは机に頭を投げ出していた。

 足早に夕暮れ時を歩く。脚を運ぶのさえもどかしかった。空を飛べたらどんなに良いだろう、ふとそんな考えが過ぎって消えた。

 今度はエル=アセムもすんなり戸を開けた。待ち構えていたようなタイミングの良さだった。

「覚えてられたじゃあないか」ノーアが声を掛けるとエル=アセムは驚いた。

「あっ、そう言えばせんせーにお兄さんの事言ってなかった」

「はあ? じゃあなんであんたはおれを入れたんだよ」

「せんせーが『そろそろお客様がいらっしゃるから迎えに行きなさい』って言ったから」

「なんだそりゃ……」もう言葉もなかった。

 執務室にはアンドレアと、ローブで全身を覆ったアイズベルク。エル=アセムが部屋を出て行くと彼女はフードを下ろした。

「やあ、お待ちどお。先日はすみませんでした、何分なにぶん外せない用事があったもので。生体管理技官サージュファムラボラスと打ち合わせをしていたのですよ。次においでになるなら夕方がいいでしょう。日中は子供達に授業エチュードがありますし――」アンドレアの笑みを無視してノーアはアイズベルクに詰め寄った。

「なあ、あんた。アイズベルクさんよ。あんたは下克上を狙ってる、そうだよな?」

「下克上という言い方は不適切です、解放と――」彼女は少しむっとしたようだったが構わない。

「細かいニュアンスはどうでもいい。あんたははかりごとが成功したら、天族セレスティア達をどうするつもりだ」

「……何故、そんな事を気にするのですか?」アイズベルクが怪訝そうに訊き返した。

「質問しているのはおれだ」

 彼女はノーアを睨みつけた。彼も負けじと視線を返す。火花を散らすような睨み合いを遮ったのはアンドレアだった。

「まあまあ、お仲間なんだからそんなにいがみ合ってはいけませんよ。ノーアからまず説明して上げなさい、答えはそれからです」まるきり子供の喧嘩を仲裁する教師アンセヤンの口調。

「――書記官ルフルには娘がいる」

天使アポートルに子供は」アイズベルクの反論をアンドレアは柔らかく制した。

「おれは率直に言って、彼女が欲しい。混乱に巻き込まれて殺されても困る。だからその処遇を訊いた。次はあんたが話す番だ」

 アイズベルクは困惑した目でアンドレアを見た。彼はそれに微笑で応えた。「彼には後で私から教えておきましょう」

 彼女はノーアに視線を戻した。「『千翼貴族ミルエール』は全員拘束し、裁判に掛ける予定です。こんな世界を作り上げた責任が彼らにはある。しかし、抵抗するなら殺害も止むを得ないと考えています」

「何故だ。少なくともあの娘は何もしていない」

「支配階級の血を継いで生まれ、その恩恵を享受した。それだけでも罰を受けるのに十分です」

「それじゃあ、今と同じじゃないか。生まれだけで差別して、頂点てっぺんにいる奴が変わるだけだ」

「然るべき罰を与えはしますが、一生そのままではありません。降伏し、我々の側に着くなら新たな役割も与えましょう」

 ノーアは唸った。レアが抵抗するとは思えないが、ルフルが果たして納得するだろうか。最上流の地位を投げ出すようには思えなかった。その様子を見たアイズベルクは溜息を吐いた。

「残念です、ノーア。我々の理念よりも自分の感情を優先させるとは。私はあなたを少し買いかぶっていたようです。その様子では、更なる術式の知識をあなたに与える訳にはいきません」アイズベルクはフードを目深に被ると部屋を出て行った。

「振られちゃいましたねえ」アンドレアが笑う。

「まあ、せっかくご足労いただいたのに手ぶらで帰すのもどうかと思いますし。どうですか。何故天使に子供がいないのか、私から説明いたしましょう」



 プロトコル・ボカノフスキー。名前の由来は失われて久しいですが、方法だけはしっかりと確立しています。聞いた事がないのは当たり前、何故ってこれは機密情報ですからね。天使アポートルのみが知るもの、竜人メリュジーヌは名前以外の知識を得る事を禁止され、他の種族は名前を知るだけでも重罪です。

 材料は天使の羽根。それと『無二の王NOMOLOS』の祝福を得た薬液。『無二の王』については別の機会に譲りましょう。これらを用いて生体管理技官サージュファムが適切な処置を施します。詳しい方法プロトコルは端折らせてください。実のところよく知らないもので。ともあれ、処置によって天使わたしたちいるのです。羽根を提供した天使から分化したものクローンが、大体羽根一枚から平均して二十体生まれてくるのです。

 ん、何ですか。生まれた数がそれなら天使アポートルをもっと見かけてもいいはずだ? いい質問です。天使われわれはただ生まれて来るだけでは駄目なんです。

 そもそも、このプロトコルは何の為にあると思いますか? 『次代に命を繋ぐ為』? それは天使以外の、繁殖を行う種族においては正解でしょう。ですが違います。天使われわれを構成する要素の内、不滅のものを補う為にこんな事をしているのです。

 我々を構成する要素。肉体コール精神エスプリ、そしてプシュケー。他の二つが摩耗するのに対して魂だけは永遠に在り続けます。もうお分かりですね? 肉体と精神は魂の器として用意されなければならない。その為の技法プロトコルがボカノフスキーです。

 生まれて来たもの達は。天使は自分の体から分化した存在クローンから最も優秀なものを、魂の新たなる器とします。ざっくばらんに言えば、新しい肉体うつわに乗り移ります。選ばれなかったものは処分します。

 書記官ルフルが何故貴方に娘と言ったか、もう分かるでしょう?

 子鹿あれは体を母なる存在に明け渡す為に造られたもの。書記官殿は前回の肉体移行でトラブルがあったそうで、今回は新しい体にあらかじめ教育を施す事でよりスムーズな移行を目指しているそうですよ。何故違う名前をわざわざ付けたのかって? 「おい」とか「お前」だと何だか乱暴でからだと仰っていましたね、たしか。

 ……顔色が良くないですね。日頃の疲れが溜まっているようだ――なんてね。ふふ。

 ねえ、どうしますか? 自分が愛したものが空っぽの人形だったと知って、それでも愛を語れますか? 貴方は復讐したって良い、自分を騙して惑わせた連中を罵り踏みにじっても良い。

 貴方はどうしたいですか?

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