エル=アセム
レアを守らねば――。その考えだけがノーアを動かした。
最早見慣れた玄関。戸を叩く拳に力がこもる。しかし如何なる反応もない。まだ日中、いないはずはないと彼は思い込んで何度も戸を鳴らし、ほとんど殴りつけるような勢いだった。
何十回目かのノックが空振りした。内側から戸が開かれたのだ。
「そんなに叩かないでよう。壊れたらどうすんのさー」エル=アセムが困ったような顔をしていた。
「アンドレア。監督官。いるんだろう。会わせてくれ」ノーアの言葉で
「えー? そんなの聞いてないよ。せんせーはお客さんが来る時はちゃんと朝の内に教えてくれるんだから」
「今すぐ用があるんだよ。ノーアが来たと言えば分かる」
「あのさー」エル=アセムは呆れ顔になった。「人に会うならあらかじめ
「どうやって約束を取り付けろっつうんだ。おれは、彼に連絡する手段がないんだぞ」
「じゃあ直接会って頼めばいいんじゃない? 会って話がしたいけどいつならお暇ですか、って」
「だからその会うためにはどうやって連絡を」ノーアは苛立ちまかせの言葉を辛うじて止める事が出来た。「そうだ、あんただよ。あんたから言ってくれればいい」
「えー。オレ馬鹿だからなあ。覚えてられるかなー」
「なんで忘れるんだよ。そんな難しい事じゃあないだろう」ノーアは相手がわざと面倒事を躱そうとしていると思った。
「お兄さんには難しくないかもしれないけど、オレは違うんだよ。今の仕事だって、子供の頃から何回も教えられてようやく出来るようになったんだからさ」
ふざけた調子はその目には見当たらなかった。
気持ちが焦るのと裏腹に『呼び出し』はそれから二日後だった。終業の音楽が鳴り出す――同じ建物の別の部署が作成したものだ――その時、生成りの服を透かして青い光が直線状に伸びた。慌ててそれを服ごと握り込む。幸い誰もノーアを見ていなかった。ポーリアは机に頭を投げ出していた。
足早に夕暮れ時を歩く。脚を運ぶのさえもどかしかった。空を飛べたらどんなに良いだろう、ふとそんな考えが過ぎって消えた。
今度はエル=アセムもすんなり戸を開けた。待ち構えていたようなタイミングの良さだった。
「覚えてられたじゃあないか」ノーアが声を掛けるとエル=アセムは驚いた。
「あっ、そう言えばせんせーにお兄さんの事言ってなかった」
「はあ? じゃあなんであんたはおれを入れたんだよ」
「せんせーが『そろそろお客様がいらっしゃるから迎えに行きなさい』って言ったから」
「なんだそりゃ……」もう言葉もなかった。
執務室にはアンドレアと、ローブで全身を覆ったアイズベルク。エル=アセムが部屋を出て行くと彼女はフードを下ろした。
「やあ、お待ち
「なあ、あんた。アイズベルクさんよ。あんたは下克上を狙ってる、そうだよな?」
「下克上という言い方は不適切です、解放と――」彼女は少しむっとしたようだったが構わない。
「細かいニュアンスはどうでもいい。あんたは
「……何故、そんな事を気にするのですか?」アイズベルクが怪訝そうに訊き返した。
「質問しているのはおれだ」
彼女はノーアを睨みつけた。彼も負けじと視線を返す。火花を散らすような睨み合いを遮ったのはアンドレアだった。
「まあまあ、お仲間なんだからそんなにいがみ合ってはいけませんよ。ノーアからまず説明して上げなさい、答えはそれからです」まるきり子供の喧嘩を仲裁する
「――書記官ルフルには娘がいる」
「
「おれは率直に言って、彼女が欲しい。混乱に巻き込まれて殺されても困る。だからその処遇を訊いた。次はあんたが話す番だ」
アイズベルクは困惑した目でアンドレアを見た。彼はそれに微笑で応えた。「彼には後で私から教えておきましょう」
彼女はノーアに視線を戻した。「『
「何故だ。少なくともあの娘は何もしていない」
「支配階級の血を継いで生まれ、その恩恵を享受した。それだけでも罰を受けるのに十分です」
「それじゃあ、今と同じじゃないか。生まれだけで差別して、
「然るべき罰を与えはしますが、一生そのままではありません。降伏し、我々の側に着くなら新たな役割も与えましょう」
ノーアは唸った。レアが抵抗するとは思えないが、
「残念です、ノーア。我々の理念よりも自分の感情を優先させるとは。私はあなたを少し買いかぶっていたようです。その様子では、更なる術式の知識をあなたに与える訳にはいきません」アイズベルクはフードを目深に被ると部屋を出て行った。
「振られちゃいましたねえ」アンドレアが笑う。
「まあ、せっかくご足労いただいたのに手ぶらで帰すのもどうかと思いますし。どうですか。何故天使に子供がいないのか、私から説明いたしましょう」
プロトコル・ボカノフスキー。名前の由来は失われて久しいですが、方法だけはしっかりと確立しています。聞いた事がないのは当たり前、何故ってこれは機密情報ですからね。
材料は天使の羽根。それと『
ん、何ですか。生まれた数がそれなら
そもそも、このプロトコルは何の為にあると思いますか? 『次代に命を繋ぐ為』? それは天使以外の、繁殖を行う種族においては正解でしょう。ですが違います。
我々を構成する要素。
生まれて来たもの達は魂を持ちません。天使は自分の
書記官ルフルが何故貴方に娘のようなものと言ったか、もう分かるでしょう?
……顔色が良くないですね。日頃の疲れが溜まっているようだ――なんてね。ふふ。
ねえ、どうしますか? 自分が愛したものが空っぽの人形だったと知って、それでも愛を語れますか? 貴方は復讐したって良い、自分を騙して惑わせた連中を罵り踏みにじっても良い。
貴方はどうしたいですか?
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