果たして彼女はそこにいた。ノーアが手を振るとふわりと降りて来た。

「今日は詩はないけど、見せたいものがあるんだ」気持ちが逸るあまりにノーアの口調からは敬語が抜けていたがレアはそれに気付かないか、関心がないようだった。弾む息を抑えながら手を出し出す。レアは首を傾げて覗き込んだ。そしてそこに火が現れるのを見ると僅かに目を見開いた。

 朱い光がレアの瞳に反射して妙なる色彩を作り出し、銀の髪は曇天の雲のような陰影を湛えた。このためだけでも来た甲斐があった、ノーアは知らず頰が緩んだ。

「これは……、どうして……?」レアがゆっくりと、言葉を選ぶようにして尋ねた。ノーアは何と答えればいいのか迷った。本当はいけない事なんだ、とは言えない。

「えーっと、これは秘密の力なんだ。両親がこういうのを研究してて」という点においては強ち嘘でもない。

「ノーアの両親……術式管理官だったの……?」どうやらレアは彼らが職業で研究していたと捉えたらしい。実際のところは郊外バンリューの製造技師であり、度重なる禁術の研究で最後は村に追い払われ農夫としての仕事を余儀なくされたのだが、ノーアはそれを伏せた。

「あ、でもこれは他言無用でよろしく頼むよ。おれの信用に関わるし──」彼はレアの細い手の指が自分の手に絡みつくのを見た。それは火とは異なる仄かな温もりを具えていて、意識が乱れたために火が消えてしまった。二人の姿が薄暗がりに溶けた。

「消えちゃった」レアはさして残念でもなさそうに呟いた。また点けるよ、ノーアはそう言おうとしたが、指先の濡れた感触に言葉が遮られた。この感触は、子供のころ葉で手を切って、指を咥えて血を舐めた時のそれとそっくりで、つまり?

 目が暗い環境に慣れてきて、それをはっきり視認する事が出来た。彼女、レアが、自分の指を咥えている。ノーアはもう一方の手で叫びそうになるのを塞がなくてはならなかった。それは驚愕、あるいは歓喜か。

 レアが口を離した。濡れた指先が夜風に当たってひやりとした。

「おいしい。ノーア、おいしい」渦のような感情の中でその言葉だけが甘美に響いたのを覚えていた。






「何にやにやしてんの、気持ち悪い」翌朝、向かいに座るポーリアが眉を顰めたがノーアにはどうしようもない事だった。

「実はおれ、好きな人がいるんだ」

「ああそう」

「これはもう両思いじゃないか?」

「何言ってんの? 意味が繋がってないんだけど? とうとう病気になったかい」

「恋の病だろうなあ」

「あっそ。どうだっていいけど、編集長シェフの前では普通の顔に戻しときなよ」彼女はそれっきりノーアを無視して食事に取り掛かった。






 どうにか普通らしく見える表情を繕って出勤すると、常に不機嫌そうな編集長が五割増しで機嫌の悪そうな顔をして待ち構えていた。「おいノーア。今日の終業後に監督官の事務所に来るようにとのお達しだ。今度は何をやらかしたんだ?」

 ノーアは冷や水を浴びせられた心地になった。「は?」

「は? じゃない。お前、初日も仕事をすっぽかしてた分際で全く懲りてなかったのか?」

 ノーアは狼狽えた。一体おれが何をしたというのか。レアと会ってたから? 特に嫌がってもなかったどころか向こうから来るように言われたのに? ノーアが視線を落とすとわななく手がそこにあった。まさか禁術の事がバレた? しかし彼はレアを疑わなかった。周りに自分達以外の人間がいたかまで考えが及んでいなかった。誰かに見られていたんだ。

 詩作どころではなかった。ポーリアはにこりともせず原稿に向かい合っていた。






 ノーアの足取りは重い。前回監督官のもとに連れて行かれた時を思い出して喉奥にせり上がるものを感じた。またあの苦しみを味わうのかと暗澹たる気分になった。

 彼は玄関先で暫し立ち尽くした。人を呼ぶ勇気が出なかった。それでもどうにかやる気を奮い起こして戸に手を伸ばすと同時にそれが開いた。中から人が戸を開けたのだ。

「お久しぶりー、お兄さん」いつぞやの竜人の青年が愛想の良い笑顔で立っていた。





「せんせー、お連れしましたー」ノーアの憂鬱など歯牙にもかけぬ呑気さでエル=アセムは執務室に入って行く。

「ご苦労。もう下がって結構ですよ、エル=アセム」監督官アンドレアは何も変わらない。同じ服装、同じ笑み。違うのは傍らにもう一人、フード付きのマントで全身を覆った人物が立っている事。目深に被ったフードからは真一文字に引き結ばれた口元と細い顎くらいしか見えなかった。

 エル=アセムが部屋を出て行くと、アンドレアは感慨深いといった様子で息を吐いた。「ようやく会えましたね。闇に覆われぬ場所で」

「はい?」何処かで聞いた言葉フレーズだが、思い出せない。

「覚えていないならそれでも結構。今回ご足労願ったのは、実は折り入って相談がありましてね? 少々踏み込んだ事を訊きますが、覚悟はよろしいですか?」口元に微笑を湛えながらもその目は真剣そのものだった。

「え、覚悟とはどういう――」

「貴方は愛する子鹿バンビとは絶対に結ばれる事はない、と理解していますか?」

「――は?」訊き返したい事は山程浮かんだが、肉体は精神に追いつけない。

天使アポートルには。原則的に子供を持つ事もありません。加えて、地族エーアトロイテ天族セレスティアが必要以上に親しい仲になる事は。それを理解出来ますか?」

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