氷山

「じゃあ、どうしたらいいんですか! 諦めろって言うんですか!?」思わず語気が荒くなる。

 それに答えたのはマントの人物だった。「今のままでは諦めるしかありません。しかし、それを変える事が出来るとすればどうでしょう?」年若い、少女の声だった。

「どうですか? 変えたいと、今の世界を壊したいと思いますか?」

「壊すって、どういう意味ですか」冷静さを欠いたノーアでもそれを訊き返す事は出来た。

「生まれだけを理由に身分を振り分けられ、天族セレスティアの価値観だけで仕事も食べる物も定められる人生にどれ程の意味があるのですか? 一部の人間だけが甘い汁を吸う世界なんて間違っています。豊かさや愛は全ての人が分かち合うべきものです」

「……無理だ。おれ一人でそんな大それた事――」

「一人ではありません」その人物はフードを脱いだ。「がいます」

 ノーアは息を呑んだ。側頭部から生え、捻じれながら天を衝く一対の角。墨がかった肌。魔人ディアーブルの少女だった。ノーアは今まで魔人を見た事がなかった。

「つまり、私達は貴方を勧誘しているのです。我らが『解放軍アスヴァパジジェニエ』に」

「何だって?」魔人の言葉は耳に馴染まない。

天族語ラングドセレストではリベラシオン、と言うのでしたか。地族語エーアトシュプラッヒェで何と言うのかは申し訳ないが分かりません」

解放ベフライウング……。しかし、なんでおれなんだ。おれは荒事は得意じゃあない……」

「私達が求めるのは心の有り様です。この世界への不満ルサンチマンを抱く者。一人ひとりは雨粒程度の力でも、集まれば大岩を穿つ事だって可能になるでしょう。抗ってresiste自分の存在を証明するprove que tu existesのです」少女の淡々とした言葉遣いとは裏腹にその琥珀色イャンターリの目は燃えるような力強さに満ちていた。

「あなたの事はアンドレアに聞きました。道具を一切使わず火を熾す能力があるとか。実際的な力はきっと役に立つでしょう」

「いや、ちょっと待てよ」ノーアは頭を振った。「そんな話を何故此処でする? まさか監督官もだって言うんじゃ――」

「ええ、勿論ですとも」アンドレアは小首を傾げて笑って見せた。

「えぇ……」ノーアは開いた口が塞がらない思いだった。

監督官セニャールに任命された者は視覚や聴覚に特殊な術式を施されます。それらは距離や壁に遮られる事がなくなる。諜報に最も適している人材であり、貴重な協力者です」少女が補足するように言った。

「……監督官様は一体何が不満なんですか」ノーアは尋ねた。

千翼貴族ミルエールの高慢ちきな連中に、目にもの見せてやりたくなりましてね? 監督官という仕事は天族セレスティアの中でも劣った身分ですから」アンドレアは悪戯っぽく片目をつぶった。「それでこちらのアイズベルクさんの話に乗ったというわけ」

「ああ、自己紹介がまだでしたね。私の事はアイズベルクと呼んでください」

氷山アイスベルクとは変わった名前だ」

「私は氷山の一角です。上端に位置し、水面下の仲間達と共にある存在。その意味で自らをそう名付けたのです」

「じゃあ、それは偽名なのか?」

「今は本名を明かす事は出来ません。平等の実現した世界でそれを取り戻すと決めたので」

 ノーアは腕を組んだ。「大体分かった。それで、おれは何をすればいい」

通行証パンダンティフは今ありますか? 出してください」ノーアが首からペンダントを取り出すのと同時にアンドレアが机からもう一つそれを引っ張り出した。

「これと交換を。必要な時が来たら、道標が此処を指します。そうしたら来るように」手渡されたそれはノーアが持っていたものより濃い色で、半透明の石が納まっていた。

「今からあなたは私達の仲間です。言うまでもない事ですが、絶対に此処での会話を口外しないように。アンドレアはそれすら見通せますから」アイズベルクの言葉でノーアは背筋が震えるのを感じた。彼らを敵に回してはいけない。

「今日はもう帰って休みなさい。昼間は普通に仕事をする事をお忘れなく」

 アイズベルクが扉を開けた。ノーアは部屋を出た。






 二人きりの部屋で、アイズベルクが長い溜息を吐いた。「やはり慣れません。人の上に立ってあれこれ指示するのは。一人で出来たならどんなに気が楽でしょう」

「すぐに慣れますとも。貴女はその為に中央セントラルに来たのでしょう? やるべき事はまだまだ沢山あります。泣き言は時までとっておきましょう」アンドレアが柔らかい口調で言った。

「それで、どうでしたか? 今日のは?」

「――皆、私が魔人ディアーブルと知った途端に態度を変える。分かってはいましたが、この国の差別意識は根深い。種族を超えて団結しなければならないという事をまず教えねば。ああ、でもエリヤという人は違った。彼だけは私を見ても態度が変わらなかった」

「もともと不遜な傾向があるようでしたがね」アンドレアは低く笑う。

「いえ、むしろそういう人間の方が良い。権力におもねる事のない性分は重要です。動機付けが少々弱いのが難点ではありますが」

「殺人事件の調査権限と引き換えに、と言うより形でしたからね。まあ真面目そうだし大丈夫でしょう」

「……あなたは随分楽観的ですね」アイズベルクの目が僅かに細められる。

「多角的な視点は組織にとって有益です。貴女の悲壮な覚悟も欠かせませんが」

「覚悟、そうですね。私は覚悟を持って此処へ来た。たとえ誰であっても目的の為なら厭わず踏み越える。そうする事でしか平等な世は訪れない――」

 アンドレアはただ笑ってそれを聞いていた。

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