詩人の条件

  ふとノーアが顔を上げると壁の標語が正面やや上にあった。


 戦争は平和なり

  自由は隷従なり

  無知は力なり


 教会エグリーズの説法室にも貼られている言葉だ。「自由は屈従なり、ねえ……」

  隣の机に向かうポーリアが含み笑いをした。「おやおや、うちの新入りは題目スローガン。こいつは要注意かもなあ」工房の詩作部門は本来編集長を含めて五人在籍しているが今は別件で出払っているため二人だけだ。

「いや、疑ってるわけじゃないんだけど」ノーアは隣人に顔を向けた。彼女の目は手元の原稿から動かない。

「別に責めてるつもりはないよ。ただ、やっぱり工房ここに呼ばれるだけの理由はあったんだなー、って」

「理由?」

「我ら愚民には知らされない、職業の選定基準。そいつの少なくとも一つに、あたしは気付いてしまったのさ」彼女はそう言いながら原稿に何事か書き込む。「教えてあげよっか?」

「何だよ?」

。それが工房アトリエに勤める奴らの共通点。編集長シェフみたいな管理職は別だけどね」

  ノーアは返答に窮した。その顔を見てポーリアがけけけと嗤った。

「でもあたし達は運が良い。この社会はそういう手合いを見捨てない。むしろ積極的に仕事を割り振って、余計な事を考える暇を取り上げる。治安維持部隊が要らないくらいにはここは平和だ。工房アトリエには乱暴者の獣人ヴェアヴォルフ竜人メリュジーヌなんかはほぼ来ないしね」

 だろ?と聞かれても彼は素直に頷けなかった。「そういうもんかなあ」

「そういうもんだとも。辺境の魔人ディアーブルみたいに食いっぱぐれないだけでも感謝しなくちゃいけないのさ」また原稿に数語書き入れる。

「感謝の結果が詩作ってか?」

「そうだよ。でなきゃ田舎で一生畑仕事。でも、どうせあんたもろくろく働かないで怠けてきたんだろ? 今ここにいるのは不思議でも何でもない、必然さね」

  ノーアは自分の原稿に目を落とした。まだ何も書かれていない白紙タブラ・ラサがそこにあった。




 ノーアは一先ず恋愛詩人ツルバールの分担に割り振られた。

初日(厳密には二日目)に編集長はひとしきりノーアをなじった後、何か書いてみろと原稿を放って寄越した。

  ノーアは悩んだ。故郷の村や、川、中央セントラルの街並みを脳裏に必死に描いても、ひどく色褪せた味気ない情景以上のものにならなかった。

それら過去の記憶は全て、天使アポートルレアの美しさをより鮮やかにするためだけの引き立て役に降格していた。

 だから彼は彼女の事を書いた。その名前は伏せておいて──横恋慕を罪悪と言われるのを恐れて──その美しさを称え、受くべき愛を夢想した。その結果として彼の作品のジャンルは決められた。

 幾つか書き、編集長に手直しを食らう合間に、こっそり別の紙に同じ文言を写しておいた。『彼女』の喜ぶ顔を想像しながら。

 ところが、その最も聞かせたい人物の感想は全くの正反対だった。

「つまんない」口数の少ない彼女は、それ故にきっぱりと言い放った。

 ノーアはこれにひどく狼狽した。字引を使いながら正確なニュアンスを一語一語確かめ、出来るだけ多くの語彙を用いて書き上げたのだ。経験の不足はともかくとして、自分でも会心の出来だと思ったものを用意したのに、何がいけなかったのか。

 レアの答えは簡潔だった。。彼女はノーアに異種族ならではの見知らぬ景色や文化についての描写を期待していたのだ。自分を褒め称える言葉は日々浴びるほど受けている、そんなものを改めて聞かされてもちっとも面白くない。総合するとおおよそこのような返答だった。

「だから、違う詩を持って来て」そう言って彼女は自室に戻って行った。

 ノーアの苦悩はいや増した。彼女レアの存在を知ってからというもの、その他全てがつまらないものに成り果てているのに一体どうすれば良いのか。空回りする愛情はいっそ恨めしいと感じるほどで、しかし気が付けは彼女の事で頭がいっぱいの自分がそこにいる。絶不調スランプの彼に同僚や上司が向ける視線は冷たく、一番親しいポーリアはそんな彼を見て冷笑を浮かべるのみ。

  四方を見えない壁が塞いでいて、何処にも行くべき道が見当たらない。虞や虞や汝を如何せんエリ・エリ・レマ・サバクタニといった塩梅であった。



 いくら頭を絞っても、書けない時は一文字も書けないものだ。終業時間を告げる物悲しげなメロディが部屋に響く。ノーアは頭を抱えた。

「あっ、そうだ。ノーアは長耳ラパンって聞いた事ある?」ポーリアが机の上の筆記具を片付けながら尋ねた。

「聞いた事もないな。何だそりゃ」

「この前視察に来てた天使アポートルのお偉いさんが話してるのを聞いたのよ。口振りからするに食用の家畜らしいんだけど」

「知らないなあ」エルフアールヴ達は基本的に動物の肉を食べない。竜人と獣人は肉中心の雑食、天使は『ネクタル』と『アンブロシア』と呼ばれる専用の飲食物しか口にしない──というのは子供時代に聞かされた話である。

 二人は部屋を出て、そのまま食堂へと向かった。具が微妙に違うものの、ほぼ毎食同じような煮込みが配られる。ノーアは嫌になりつつあったが文句を言うべき相手もいない。配膳係や調理係は指示された通りの仕事をしているだけであり融通を利かせる権限はない。

「そういや、ポーリアは本当に成人なのか? 実はおれより年が下だったりしないか?」どろどろの野菜を飲み込んでノーアは初対面の時から漠然と抱いていた疑問を口にした。

「順番に答えてあげよう。あたしは本当に成人済み。でなきゃこんな所で働いてないよ。年はノーアが幾つか知らないから上とも下とも言えないねえ。あたしの村はが来た年に成人になるってしきたりなのさ」

「男はどうするんだ、それ」についての正確な知識はないが、妹のアルと叔母さんが話していたのは覚えていた。ある程度成長した少女に起こる身体的な変化という認識だった。

「同い年の女の子にが来たらその年で成人さ」ポーリアは鉢の中身をかき回す。

「滅茶苦茶非合理的ウンラツィオナルじゃないか?」

「まあそんなに人口の多い村でもなし、別に不便はないよ。監督官セニャールは何でもお見通し……」彼女が手を止めた。「なんてみんな言うけど、あたしはそうは思えなかったんだよねえ、正直。でも、それも含めて見透かされてたんだろうね」その顔から冷笑が失せる。しかし、ノーアにはその表情の方がに見えた。





 宿舎は男女別である。ノーアは一人で自室に戻って来た。灯りはなく、円い窓から街の光が差し込むばかりの部屋。

 ノーアは手のひらを上に向け、そこに意識を集中させた。音もなく小さな火が灯る。

 まるで独房ツェレだ、とぼんやり思う。日中は仕事、飯を食べたらあとは寝るだけ。レアのための詩も捗らない。

 ふと手の火がある考えを照らした。を彼女に見せたらどうだろうか。珍しがってくれないだろうか。喜んで、くれるだろうか。

 それは全く独りよがりな思いつきだった。しかしその時の彼には実に面白いアイディアだと思えたのだ。


 言葉なんて迫力がない

  言葉なんて なんて弱いんだろう

  言葉なんて迫力がない

  言葉はなんて なんて弱いんだろう



 詩作に絶望していた彼にはそれこそ無二の打開策だった。それに、火を灯せばまた明るい所で彼女の姿を見られるのだ。隙間のような夜の闇でなく。

 彼は部屋を飛び出した。守衛の訝しげな視線など気にならなかった。

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