羽根

 日中に通された正門は閉ざされていたがそちらに用はない。裏手へと回った。

 この時のノーアには明確な目的があるわけではなかった。ただ名も知らぬ美姫の住まいを見れば吹っ切れるかもしれないとだけ考えていた。

 だから、そこで見た物は全くの想定外だった。

 二階建ての館、角部屋のバルコニー。病んだ太陽の光が反射してぼんやりと赤い光を滴らす月の灯りに照らされて、『彼女』が身を乗り出していた。

 嗚呼、と感嘆の吐息が漏れる。月下にあっても彼女の美しさは揺らがない。どれほど言葉を浪費しても表現しきれない。夕焼けの残滓が消えていく間、ノーアは忘我のままその姿を見つめていた。

 ふいに『彼女』の視線が低くなった。そしてそれはノーアを捉えた。ノーアは何か言うべきか迷った。怖がらせた事を謝りたいと思ったが、バルコニーに届く程の声量は他の住人にも聞かれるかもしれない。それは経験による学習か、何にせよ彼は日中と同じ過ちを繰り返さないようにする方法を考えていた。ところでこれは全く独りよがりな発想であり、相手の心象如何によっては再び言いつけられる危険性を彼は考慮していない。だが彼は運が良かった。

 胸の高さの手摺りに体を預けていた『彼女』が浮かび上がり、手摺りを乗り越えて落ちた。緩やかに落下して地面に足を着け――この時は裸足だった――音もなくノーアの方へ歩いて来た。

 ノーアは逡巡したが、やはり謝罪をすべきという結論に至った。「あの、昼間は誠に申し訳ございませんでした。もうあのような真似は二度と致しませんので――」

「かわいそう」『彼女』の言葉が遮った。「母様マ・メールにたくさん怒られて、かわいそう」

「えっ?」ノーアは面食らった。彼女が自分に話しかけてくる事も、その内容も、想定の範囲外だった。どうやら『彼女』は何処かで昼間の遣り取りを見ていた、あるいは聞いていたという事なのか。

「あなたは、ポエムを書くの?」幽かに憂いを秘めたその表情のまま、『彼女』は言葉を紡ぐ。ゆっくりと、まるで自分の機能を確かめているように。「母様が言ってた」

「え、えーと、まあまだ書いた事はないんですけど、一応そういう仕事をするためにここへ来たので……」ノーアはどぎまぎしながら答えた。『彼女』の瞳は魔法のようで、その中の影や光の揺らめきを見ていると言葉を忘れそうになる。

「もし、完成したら、持って来てくださいね。あなたが、どんな詩を作るか、知りたいから」『彼女』は自分の翼に手を遣った。羽の一つに手を掛けるとそれはするりと抜けた。

 『彼女』はノーアに向かってその羽根を突き出した。

「……前金。ほかにあげられるもの、なんにも持ってないから」ノーアが羽根と『彼女』の顔を交互に見ていると『彼女』はそう言った。受け取れ、という事らしい。ノーアはなるべく丁寧な動作でそれを受け取った。「あ……ありがとうございます。でも別にお金が欲しいわけじゃ――」

「名前」またもや遮られた。「何ていうの」

「ノーア。川沿いの村のノーアノーア・アム・バッハと申します」

「わたしはレア。珍しいラールって意味の――」お嬢様マドモアゼルレアお嬢様マドモアゼル・レア。館の中から大声が聞こえた。彼女がバルコニーの方へ振り向いた。「お風呂。またあとでね、ノーア」

 降りてきた時と同様の軽やかさで彼女レアは飛び立ち、バルコニーの中に姿を消した。

 ノーアは手の中の羽根を見つめた。ほのかに乳の甘い香りがした。





 またあとで、と言うので暫く待ったが、レアが戻って来る事はなかった。部屋の灯りが消えたのを見て、ノーアは諦めて新居へ向かった。





 寮は工房アトリエに併設された建物で、眠そうな目の警備要員が不機嫌を繕う事もせずノーアを睨みつけた。それでも関所でやったのと同じようにペンダントを差し出すと、暫くそれと手元の手帳らしきものを見比べた後にノーアに返した。「今回だけだからな」警備員はぶっきらぼうにそう呟いた。

 通行証はノーアに割り当てられた部屋に入るとその光が消えた。荷物は日中に保安官に没収されていたが、監督官が手を回したのか机の上に置かれていた。

 ノーアは寝台に寝そべる。一日で色々な事が有り過ぎた。早く休むべきだろう。腹の虫が弱々しく自己主張したが、濃い疲労が齎す眠気はそれに勝った。

 意識がなくなる直前、彼は自分が手に羽根を持ったままである事に気付いた。枕元に置いておこうかとも思ったが、寝返りを打って潰してしまってはいけないと考えなおし、それを机に乗せた。

 ふいに監督官アンドレアの言葉が蘇る。天使わたしたちにとっては苦痛でも何でもないものです。どういう意味だろうと思考を巡らせるが、疲れ切った脳髄では答えは出せなかった。

 空腹が最高の調味料なら、疲労は最高の寝具だろう。硬い寝台でそんな事を考える内に彼の意識は今度こそ睡眠の深淵へ沈んでいった。


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