「それで? 私を納得させられるだけの理由は勿論あるんだろうね?」天使ルフルは玉座トロンヌより睥睨するレーヌのような視線を向けた。笑顔の中に怒気をたっぷり詰め込んだそれはノーアを震え上がらせるに余りある迫力を具えていた。

 『彼女』は距離を開けつつ後ろを着いて来る見知らぬエルフノーアに気付くと怯えた表情になり、先を進む露草色の髪の天使にそれを伝えた。ノーアが理性その他を取り戻した時には手遅れで、あっという間に呼び出された保安官に捕縛された。

 かくして、怒れる天使の御前に引っ立てられたのである。

「申し訳の、しようもございません」震えを堪えながら彼はどうにか目の前の女性的な天使にそう言ってその顔色を伺った。

「それで謝ってるつもりかい? 理由もなく他人を追い回す奴は狂人なんだよ? あと私は君に顔を上げていいなんて言ってないんだけど?」夥しい髪の毛を一房編み、ディアデムのように頭に巻いたルフルはノーアと違って怒りのために震えているようだった。ノーアは再び地に這い蹲るようにひれ伏した。

「心からお詫び申し上げます。天使様の、えー、妹様が余りに見目麗しく、つい……」

「君は二つ間違えている。まず一つ、あれは私のサールじゃあない。フィーユのようなものだ。そしてもう一つ、自分の罪過つみを人のせいにするのは最低の行いだよ。私が司法に携わっていないからと舐めてかかっちゃいけない。監督官に最大限の罰を下すようにと報告するくらいは簡単なんだからね。取り敢えず両手を切り落として、新大陸の開拓事業にでも配置換えして貰おうか? 従事者は五年以内に七割が病死するらしいが、案外君に向いてるかもしれないね?」新大陸とはここでは凄まじく不毛な土地の言い換えであり、つまりは言外に苦しんで死ねと言っているのだ。

「どうかお許しください。もう二度としませんから」

と思うのかい。嗚呼もう、君には馬鹿すら褒め言葉だ。不愉快だよ。とっととお沙汰を受けたまえ」天使は最後まで笑顔のままだった。

 まるで他の表情が出来ないかのように。





「御機嫌よう、若き詩人。私はここの監督官アンドレア。歓迎しますよ。ようこそ、私の執務室へ。事のあらましは聞いています。どうぞ寛いでください」保安官に連れられて入った館の一室、夕焼け色の衣服を纏う監督官もやはり笑顔だった。しかし、こちらは親しみに満ちた朗らかなものだった。その傍らには竜人の青年を侍らせていたが、彼も陽気に笑っていた。どう見ても罪人の処罰を宣告する雰囲気ではない。ノーアはかえって恐ろしくなった。

「さて、引き伸ばしてもしょうがないので本題に入りましょう。議会書記ルフルは貴方を第一級盗難及び拉致の罪で裁くように指示なさいました。しかし、私はその罪状は相応しくないと考えています。つき纏われるのが嫌ならそれ相応の振る舞いが必要でしょう? まして秘蔵っ子を本気で守りたいなら。被害者感情だけで刑罰を測るのでは法の存在意義がなくなってしまう。それに、我々はとても慈悲深いのです。貴方の故郷の監督官マルコの人物評レポートを読みました。天族語ラングドセレストの成績は村で一番、。詩人への適性は抜群と言えるでしょう。そんな将来有望な、情熱的な人材を潰してしまうのは惜しい。身分違いの恋、良いではありませんか。夢見がちな者アリスの見果てぬ夢は上等な詩の源泉たり得るでしょう。というわけで、私は己の裁量で罰を下すとしましょう。エル=アセム、隣の備品室の赤い棚、上から三番目の引き出しにある物をここへ」

「あっ、あれをやるんですか。あれは酷い、一番酷い、うんうん本当に酷いもんだよあれは」エル=アセムと呼ばれた竜人はへらへら笑いながら部屋を出た。暫くして戻って来た彼の手には赤銅色の金属の輪があった。

「どういうものかは実際に体験してもらうのが良いでしょう。一つだけ言っておきますがね、は私達天使にとっては苦痛でも何でもない事なんです。この意味は今夜ゆっくり考えてみてください。それじゃあ、素敵なひと時を」監督官は指を下げるジェスチャーをした。折り畳み椅子に座るノーアの頭蓋に竜人が輪を載せた。


瞬間、世界が消えた。

色や音、全てが失われた。

驚いて声を上げようとしたが。動かないのではなく本当に何もないのだ。喉だけではなかった。手足、目や耳、その他体のあらゆる器官に意識を向けても『そこに何もない』という実感のみが返ってくる。ノーアはパニックに陥った。というのがこれ程の苦痛と恐怖を齎すなんて考えた事もなかった。ノーアの魂だけがそこに在る、全ての時間と空間が崩壊した世界。逃げる事も叫ぶ事も出来ない、地獄のような生がそこにあった。





「ねえ訓導せんせー、今度はどのくらい置いとけばいいかな?」エル=アセムがのんびりとした口調で言う。ノーアははたから見れば放心状態のようにしか見えない。それは無形の檻だった。対象は叫びも暴れもしない。肉体は呼吸や拍動を続ける。肉体と精神から魂を抉り出して孤立させる、この都市まちではさして珍しくもない刑罰用装置だ。

「半刻もやれば十分でしょう。しかし娘、娘ねえ。あの雌鹿イホウンデー、何を考えてるんでしょうね? 使というのに」アンドレアは髪を弄りながら言った。

「せんせーに分からない事がオレに分かるわけないじゃん。知ってるのは『天使様には性別がない』って事くらい」

「ないというのは不正確です。厳密に言えば我々には七十二の性別がありますが、構造自体は両性具有と呼ぶのが相応しい。無性ないではなく両性あるのです」

「あはは、よく分かんねーや。つまりせんせーは胸がぺったんこの女ってこと?」

「違います。七十二の性別はグラデーションのようなものであり、男性的な者、女性的な者、様々です。私はどちらかと言えば男に近い。まあ、君がどう思おうと構いませんが」

「それにしても」エル=アセムはノーアを見やる。「これに懲りて、もう悪い事しなくなるといいですねー、この人も」

 アンドレアが低く笑う。「君は本当に純粋だ、それが良いかどうかはともかく。しかしむしろ、私としては彼が懲りない事に賭けたいですね」

 竜人は首を傾げる。

「彼の両親の刑罰執行記録を読みました。二人揃って第四級反逆を繰り返し、左手の指五本、右目、臼歯それぞれ四本を『没収』されても尚禁忌の研究を続けたとか。しかも割り振られた職務と平行しながら」

「へええ、そいつぁ筋金入りですね」エル=アセムはノーアの顔を覗き込む。その目には如何なる感情も見出せなかった。

「素晴らしい執念テナシテです。そんな両親の血を引く彼はこの程度でへこたれるような性分たまでは決してないでしょう」

「いいなあ、すごい親。オレもそんな親の所に生まれたかったけどなー」エル=アセムが俯いた。

「親は競うものではありませんよ」監督官アンドレアは優しく微笑んだ。「さて、私はそろそろ定例報告会に行ってきます。頃合いを見てそちらのお客さんを帰らせておくように。いいですね?」

「あ、そうだせんせー。お客さんと言えば、さっき一緒に来てたマントのお客さんの部屋の掃除は何時いつがいいですかね?」

「掃除は結構。と言うより君は部屋に立ち入ってはいけません。彼女は人に姿を見せたがらないので」

「せんせー、またなんか悪だくみしてるっしょ」エル=アセムがにやりと笑うと相手も悪戯っぽく片目を閉じてみせた。

 アンドレアは背もたれのない椅子から――翼の邪魔になるためだ――机を越えてふわりと飛び、部屋の出入り口に降り立った。

「空を飛ぶのって、どんな感じなんですか?」

「歩くのと大して変わりませんよ。何度も言っていますが、。では、客人に無礼のないように」





 突然、窮屈な籠に投げ入れられたような衝撃と共にノーアの世界が戻って来た。実際にはただの錯覚でしかないが、急に呼吸が出来るようになったように咳き込んだ。繋がりを取り戻した肉体が涙や涎を垂れ流した。

「はーい、お疲れさん」滲んだ視界が急に柔らかい物で塞がれた。布で顔を拭かれているのだと気付いた。その乱暴さに思わず顔を顰めた。

「あれ、監督官セニャールは……」布が取り除かれるとそこにはからの席だけがあった。

「会議に行ったよ。訓導せんせーも忙しいからね」汚れた布を丸めながら竜人メリュジーヌが言う。「玄関まで送ろうか?」

「……いえ、結構です」

「あ、オレにはかしこまらなくていいよ。苦手なんだ、そういうの」

「はあ……」竜人は高慢で鼻持ちならない手合いばっかり、と言っていた叔母の言葉を思い出す。しかし目の前の彼はどうも違うらしい。毒気を抜かれた気分だった。

 二人は暫し無言で互いを見つめた。ノーアが相手の真意を測りかねているとエル=アセムの方が先に口を開いた。

「あのさ、悪いけど早く帰ってくれないかな? オレ部屋の掃除とかもしなくちゃいけないんだ。流石にもう歩けるっしょ?」ノーアの体調を見ていたらしい。慌てて立ち上がると足がぶつかって椅子がひっくり返った。





 既に太陽は沈み、残んの光だけが空に紅く漂っていた。どうやら今までいた建物は監督官の執務をまとめて行うための複合施設であるらしく、故郷の教会に似た設備をちらほら見かけた。その質の差については比べるのも馬鹿らしい程のものがあったが。ノーアは自分が田舎の生まれである事を痛感した。

 衣服の下から通行証の青い光が透ける。それが指し示すのは新しい職場か、あるいは寮か。おれの行きたい所ではないな、とノーアは思った。彼の脚が向かうのは真逆の方向だ。

 青く塗られた外壁。書記官ルフルの住まい。『

「懲りねえなあ、我ながら」喉元過ぎれば熱さを忘れる、まさに今のノーアの事だった。






「あらゆる魔法の中で最も強力なものは愛だと言った詩人がいました。ひょっとしたら、彼らがそれを証明してくれるかもしれません。いずれにせよまた会えるでしょう――闇に覆われぬ場所で」誰にも聞かれる事なく夜闇に消えた呟きがあった。

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