中央


 最小限の着替え、筆記具。ノーアの荷物はそれだけだった。アルの方も大体似たようなものだったが。

 村の監督官セニャールが見送りのためにやって来た。ヨーゼファ叔母さんは大層畏まって、慌てて茶を淹れようとしたが、天使族アポートルの監督官はそれを柔らかい物腰で制した。

 天使は茶を飲まないのだ。

「二人とも、実に立派に育ちました」監督官は――見た目だけはノーア達とそれほど変わらない年齢に見えるが、実際は叔母さんよりも遥かに年上である――厳かに言った。「それぞれの勤めをきちんと果たしてくれると信じていますよ」

「はい、先生。今までお世話になりました」アルが一礼する。監督官の仕事は多岐に渡り、それには教会エグリーズでの子供たちの教育や、それぞれの適性を調べて労働を割り振るといったものも含まれる。

「ああ、それと」監督官は厳しい目で双子を見た。「最近、魔人族ディアーブルの間で反抗や不服従の罪科を働く輩が増えているとの噂です。奴らは卑しい身分でありながら、エルフや獣人ルーガルーを扇動し、正しい道から外れさせようとするとの事。くれぐれも気を付けなさい。もし不逞の輩を見つけたら、その領地の監督官セニャールに報告するように。いいですね?」

「はい」

「よろしい。服従は貴方達の行いのうちで最も基本的な美徳です。そしてそれは天使アポートル竜人メリュジーヌに捧げられるべきもの。それを忘れてはいけませんよ」





 ノーアの新しい職場は中央部セントラル、アルの天体観測所は郊外バンリューにそれぞれあった。二人は別々の道を行く事になった。

 別れの挨拶は実にあっさりしたものだった。

「元気でね」「ああ」それで十分だった。今生の別れでもあるまい、休暇が出来たら会いに行く事もあるだろう。

 半日程歩き続ければ、脚に疲労が溜まっていくのが嫌でも分かった。ノーアの行く道から少しずつ木が減っていく。代わりに凝土で出来た巨大な壁が見えてきた。造られた当初は陽光を跳ね返すような白亜の建造物であっただろうと思われたが、今となっては濁った灰色にしか見えなかった。

 壁の一部に穴が穿たれ、そこが関所として用いられていた。詰所には壮年のエルフの男が座っていた。

「通行証は?」投げ槍な調子で問われたノーアは、生成りの衣服の下から首に下げたペンダントアンヘンガーを取り出した。先んじて監督官に貰っていたもので、檻のような針金細工の中に薄青い透明な石が納まっていた。

 通行証ペンダントを受け取った門番は、暫くそれを手持ちのタブレット――石や金属とも異なるつるつるした素材で出来ていた――にかざしていた。ノーアがよく見ようと覗き込むと男は鬱陶しげに手を振って遮った。

「はい、もういいよ」門番のエルフは通行証を放り投げた。ノーアは辛うじて地面に落ちる前にそれをキャッチした。

「問題を起こさないように」それだけ言うと門番は視線を逸らした。最早関心を失ったというのがありありとその態度から見て取れた。

 ノーアは荷物を持ち直して壁を潜り抜けた。

 





 通行証アンヘンガーの幽かな光が直線状に伸び、経路を示す。便利なもんだ、とノーアは石を閉じ込めたその細工物を太陽に透かしてみる。幾本もの縦線と二本の横線が陰を作り、透明な石は太陽の赤い光線の下で奇妙な色に変わった。

 その時、太陽とノーアの間に割り込む影が横切った。

 天使族アポートルの乗る飛翔機くるまだった。長方形の四隅に飛行のための術式を詰め込んだ金属の箱が取り付けられている。飛翔機は壁を越え、滑空するように近くの広場プラスにふわりと降り立った。

 ノーアは好奇心に衝き動かされてその乗り物の方へ走った。

 ドーム状の幌には出入り口が設けられ、今まさに中から人が降りてくる所だった。

 まず初めに露草色の長い髪を揺らす天使族が現れた。薄い水色の服は背中が大きく開いたホルターネック構造をしている。肩甲骨から突出する翼を妨げないためだ。

 しかし、ノーアが目を奪われたのは二人目の天使だった。

 『彼女』は一人目と比べるとやや背が低く、その分幼く見えた。銀色の豊かな髪、色素の薄い肌、幽かに憂いを帯びたような表情、いずれも彼が想像さえした事のない次元の美しさ。とりわけ心惹かれたのは目だ。長い睫毛が銀の目に灰色の影を落とすそれは光の加減で薄紫ヘリオトロープにきらめいた。一人目と同じ色の衣服を着て、全身に白金の装飾品を纏っている。ノーアはかつて叔母に聞いた『千翼貴族ミルエール』の話を思い出した。天空の統治者たる彼らは着る服の色が決まっていて、水色というのは太古の空の色に由来するため彼らの中でも特に身分の高い者しか所持と着用を認められないという話だった。

 『彼女』は服と同じ色に染められた革の長靴ブーツを履き、地面に足を着いているという点で一人目の天使とは異なっていた。一人目は薄手の靴下のようなものだけで、地面から少し浮いて他の者を待っていた。

 その後に天使族が一人と獣人族ヴェアヴォルフの青年、フード付きのマントで全身を覆った人物が降りたが、ノーアにはどうでもいい事だった。

 彼らは簡単に挨拶を済ませると、先の二人と後の三人で二手に分かれた。『彼女』は膝くらいの高さを飛ぶ一人目の天使の後ろをとことこ着いて行く。

 ノーアの脳髄からは疲れも仕事の事もすっぽ抜けていた。あるのは『彼女』をもっと見ていたいという衝動だけ。

 ペンダントアンヘンガーを急いで首にかけ直し、その後を追った。

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