第9話:夜明けの宿

 昨晩は重戦士の紹介を受けた高級宿で夜を明かす事になった。冒険者が止まるには高価すぎるが、賭けに勝って温かい財布には些かの痛痒にもならなかった。二人を相手ににするために、強壮薬スタミナ・ポーションをしこたま買い込んでもだ。


 翌朝、農夫が起き出すような朝もやの蔓延る、まだ太陽の恩恵も感じられない朝冷えの中、夜明けとともに森人エルフは真っ先に目を覚ました。まだ冷たい空気に火照りの残滓冷めやらぬ素肌を晒し、豊満な胸を抱えてベッドから降りるとサイドテーブルに並んだ強壮薬の瓶を一つ飲み干した。


 森人の感覚でもかなり久方ぶりで、せいか、やや疲れの残る体に火照りとはまた別の熱が染み渡るようだった。それと、転がる空き瓶に仲間が一つ加わるのを、使わせた身でありながら苦笑せざるを得なかった。


「やはり、意外といろいろな筋肉を使うな……。」

「そうじゃろ。まったく色とは縁遠い森人のくせに張り切りおってからに。」


 狼の耳と尻尾を揺らす少女は大きな犬歯を覗かせながら欠伸をして息を漏らす。普段からべったりだからと遠慮したものの、結局不満が残る程度にしか満足できなかった彼女はじっとりした視線を森人の自分の倍はある胸に向けた。


「お前はこの数十年間好きなだけ相手ができたんだろう。一晩くらいなんだ。」

「儂とてこのような絹のベッドなど久方ぶりじゃて。」


 やいのやいのという声で、ついに一番疲れ果てている剣士の男も目を覚ました。強壮薬をまとめて二瓶飲み干して気怠げな体に無理やり体力を取り戻させる。


「おはよう二人共、美女が2人もいるのに、お目覚めのキスもなしか? 」

「全身くまなくしてやったじゃろ。まだ足りぬと申すか。」

「美人のキスは水と同じだ。昨日全身浸かっても、翌朝渇いてまた欲しくなる。」

「せいぜい溺れ死なぬようにの。」

「それが死因なら男冥利に尽きるさ。」


 少女がへらへらとからかっているうちに、森人が不意打ちのように先に唇を重ねた。少女を一瞥するその瞳は途方もなく得意げで少女は頬を膨らませて眦に涙を溜めた。


「渇きは失せたか? 」

「いいやどうかな。ほら、拗ねてないでこっちにこい。」

「むぅ。」


 少女は胸に顔をうずめて擦りつけ尻尾を揺らした。いつまで経っても甘え癖が抜けない娘だ。このまま放っておくといつまでもこうしているに違いない。ぽんぽんと抱きしめるように背中を叩くと、名残惜しそうに顔を離した。


「さ、夜はここまでだ、気を取り直して朝を始めるぞ。」

「ところでぬしよ。そちらはまだ足りなさそうじゃが……。」

「強壮薬の作用だろうな、血行が良くなるとこうもなる。」

「では鎮めねばならんかの。」

「あーもうわかった! 一回だけだ! 」


 男は齧り付かんばかりの少女に、もう何を言っても無駄だとされるがままに組み伏せられた。


 日が昇りきった頃、漸く少女から開放された男は、重戦士の提案で久方ぶりに髪に櫛を通すことになった。少女はやることを終えると腹が減ったとさっさと服を着て部屋を飛び出していった。


「全く、朝から手間がかかる娘だ。」

「満更でもないんだろう? 」

「それはそうだが、甘え癖がぶり返すとは思ってもみなかった。」

「あの娘は主殿以外に家族がいないからな。私に取られるのが怖いんだろうさ。」

「そういうものか? 」

「あぁ、そういうものだ。よし、これでいい。」


 櫛を通して油をさした髪は、艶が出てサラサラとなびくが、目にかかって仕方がない。せっかく櫛を通したところだが、固めてしまうことにする。長く伸びた髪を革紐で縛ると、少しは昔の風格を取り戻したように思えた。


「ぬしらよ、朝食の用意ができたそうじゃ。ぬ、髪を結っておったか。」

「あぁ、食事が終わったらお前の分も結ってやろう。主様は私ほど手慣れておらんだろう。」

「うむ、頼むぞ。」


 良い宿は朝食も豪勢だ。柔らかい白パンに分厚く切った豚肉の燻製のシチュー、デザートに新鮮な果物まである。普通の旅路ではとても食べられないようなごちそうだ。


「あのなんと言ったか、貴族下りには礼を言わなきゃならないな。」

「同感だ。」

「全くじゃの。わざわざ庶民に施しを寄越すとは見上げた精神じゃ。」


 さて、王の勅命とあればいつまでもゆっくりしている訳にはいかない。時間は少ないが、やるべきことは多い。まず旅の仲間が増えるなら今の荷車では小さい、大きな荷車か、荷馬車かを用立てる必要があった。狼の少女は二頭立ての馬車ですら片手間で引けるほどの膂力があるため、今後も考えれば荷馬車がいいだろう。そして消耗品に食料に武器の予備、荷馬車に詰め込める限界まで積んで最短を急ぐ必要がある。


「とりあえずギルドだな。荷物を預けて馬車を見繕う。」

「馬車だと儂だけ疲れる羽目になる。馬も用立てようぞ。」

「まぁそうだが、まずは使うべきところに使ってからだ。頼りにしているぞ。」

「仕方ないのぅ……。」

「主様、ルゥのに漬け込むのは良くない。」

「冗談だ、きちんと馬も用立てる。」


 そう言いながらたどり着いたギルドの入り口には、なにやら冒険者だけでなく、この町の住民までもが集まった人だかりになっていた。だが、それは普段の依頼に殺到するそれとは違う。


「血の臭いじゃ。」


 少女の重たい声に、一行は足を早めた。

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