兄:兄ではなく
最低限の荷物を纏めて俺は家を出た。
恐らく、この家に戻ってくることはもうないだろう。この街に帰ってきたとしても、暮らすのはここじゃない。
運転席に座って、朋生に最後のメッセージを送る。
もう、あんな風に俺を待たないように。
――しばらく帰れない。心配ないから、ソファで寝るな
後は時間がなんとかしてくれる……はずだ。
気持ちを切り替えて、車を発進させる。十日ばかり世話になる当てを思い浮かべながら。
「今何時だと……嫌がらせか?」
寝ぼけまなこで、それでも鍵を開けて中へと入れてくれる高山に心の中でだけ感謝する。
摩周に行ったときに千早が笑い話として教えてくれたのだ。異動で帰ってきた時、以前の家の隣に空きがあったからって同じアパートにまた住んでるんだって。
「一週間くらい部屋の隅を貸してくれ」
「朋生ちゃんと喧嘩でもしたのか?」
荷物に一瞥をくれて、高山は冷蔵庫から水のペットボトルを投げてよこした。
「俺は朋生ちゃんの味方だから、連絡するぞ」
「俺がいなくなるまでは黙っててくれ」
「へぇ。理由は? 聞かせてくれるんだろ?」
俺はスマホを差し出した。
「俺の連絡先を教えとく。ともきに何かあったら教えてくれ」
水を傾ける手を止めて、高山は眉を寄せた。
「どういうことだ?」
「一ヶ月ほどシンガポールに行ってくる。研修なんだが、ともきに言ったら止められそうだから、黙ってて欲しい」
「朋生ちゃんが? そんな我儘言いそうにはないけど……」
「ちょっと、出会った頃がアレだったから、未だに遠くへ行くことに身構えるんだ。俺が出発したら、教えてもらって構わないから」
俺が黙っていなくなったのを身をもって知っている高山は、それで納得してくれたようだった。
「いつ行くんだ?」
「七月の頭。それまで仕事もあるし、そんなに邪魔にはならないと思う」
スマホを突きあわせて連絡先を交換しながら、高山は軽い調子で口を開く。
「で。お前がいない間に、このまま俺が朋生ちゃんもらっちゃっていいの?」
スマホから視線を外して高山を見たけど、高山は俺を見なかった。
「まだ何度も会ってないじゃないか。どうなるかはこれからだろ?」
「違うよ。俺達じゃない。お前はどう思ってるのか聞いてるんだ。はぐらかすなよ」
ひとつ、溜息をつく。
「……ともきは俺を“兄”以外にはしたくないんだ。何度もそう言われてる。どうしようもないだろ」
「それで、物理的に距離を置くのか」
「いい機会だったんだ」
「で、俺に託すって? お前の居ない間に飽きて捨てちゃうかもしれないのに」
にやにやと悪い笑顔を浮かべて、高山はようやく俺を見た。
「しない。お前はそんなことしない。たとえ、ともきのことが好きじゃなくても。だから……ともきのことを、頼む」
軽く頭を下げると、面食らった顔をした高山は、視線を逸らしながらがりがりと頭をかいた。
「ああ、もう! なんだよ。わかった。そこまで言うなら、お前も一筆残して行けよ」
「……一筆?」
高山は少し席を外すと、どこからか一枚の紙を持って戻ってきた。
婚姻届、と書かれていて、どきりと胸が鳴る。
高山はそれの『夫になる人』の欄に自分の名前を書いて判を押してから、俺に差し出した。
「別にすぐに渡すつもりはないよ。飛行機が落ちて、お前が戻って来れなくなっても、ちゃんと承認をもらいましたっていう証拠だ」
「……男同士だと受け付けてもらえないぞ」
「そこじゃねーよ! なんで、このタイミングでふざけるんだ。証人のとこだよ!」
「……ともきが、OKしたら、だぞ」
「当たり前だろ」
じっとその紙を見る。
これを朋生に出される時は、もう俺の名前なんて気にもならないに違いない。
俺は高山からペンを受け取って、そこに名前を書き、判を押した。
* * *
高山は何度か俺の前で朋生とやりとりを交わしていたけれど、こちらのことを伝えている気配はなかった。朋生の方も特に話題に出すこともなかったようで、高山に「本当に心配されてるのか」と怪しまれたほどだ。
どちらでもいい。
ようやく、あるべき道に戻るだけだ。
出発日の朝、休みだという高山はいいっていうのに起きてきて、玄関まで見送ってくれた。
「車、空港の駐車場に置いておくから、ともきに取りに行くよう言ってくれ。サブキーはあいつが持ってるから……無茶な運転はするなって」
「自分で言えよ。別に、指先一本で繋がるだろ?」
ゆっくりと、首を振る。
決心が鈍る。最後の返信をポップアップで見た後は、通知も切っていた。
「飛行機何時だっけ?」
「最終便だ。日勤、こなしてから行く」
「あんま、無理して働くなよ」
「金くらい、苦労させたくない。“兄”の意地だ」
「……倒れたら、泣くのは朋生ちゃんだぞ。ったく」
「お前だってデートもままならないくらい仕事詰めてたじゃないか」
「ああ言えば、こう言う……」
渋い顔をした高山とお互い軽く手を上げて挨拶すると、そのままあっさりと別れたのだった。
空港のコーヒーショップで本を読んでいたら、最終便の案内が流れた。
少し早く中に入ろうかと思っていたのだが、思いの外集中していたらしい。早足で二階の出発ロビーに向かう。
この時間の利用者はそれ程いないかと思っていたけれど、ぱらぱらとはいるもので、手荷物検査所に並んでいる数人の最後尾につく。
金属探知機を潜り、荷物を受け取ったところで、場違いな声とバタバタいう足音が聞こえてきた。
「お兄!!」
振り返りそうになって、思い直す。もう中に入っている。このまま、気付かない振りをしていればいい。
高山め。確かに、連れてくるなとは言わなかった。
ゆっくりと歩き始めると、検査員の小さく「あっ」と息を呑む声が聞こえた。
「お兄、待って! 待って!! ん、もう!」
背中では気にしながら、近づく声を拒絶する。
一度吐かれた息が大きく吸いこまれた。
「ちょ……お客様!」
「待ってって、言ってるでしょ! 大空、
呼ばれた名前と、周囲の緊張した空気に思わず振り返る。
目の前に朋生が迫っていて、荷物を離して反射的に抱き留めた。
金属探知機の赤いランプが点滅していて、ピーピーと警報が鳴っている。走ってきた朋生が飛びついてきたのだと解った。
「……何やってる」
「聞こえてるのに、無視するからでしょ!」
わらわらと集まってきた職員と警備員にすみませんと頭を下げようとして、ぐいと顔を戻された。
「行かないで。帰ってこないつもりでしょ? そんなのヤダ」
「無理だ。俺はもう兄でいたくない。ともき。どうして、妹でいることにこだわるんだ」
「ちょっと、君……」
警備員が伸ばした手を朋生を抱き寄せることで躱す。
「好きだからだよ。お兄が、好きなんだよ! お兄こそ、どうして妹でいさせてくれないの? 他人だと、一緒にいていい理由が無くなっちゃう……」
背中まで手を回して、ぎゅうと抱き着きながら言う朋生の言葉に、集まってきた人々は何とも言えない顔をした。
遅れて駆けつけた高山にきつめの視線を投げてやると、にやりと笑って警備員たちに「すみません」と声をかけながら寄ってくる。
「お兄……陵、にぃ……行かないで」
溜息が零れると、背中に回った手に力が込められた。
「無理だ」
ぐっと喉を詰まらせる朋生の顔を、無理矢理上げさせる。
「仕事で行くんだ。今更キャンセルできない。それと」
そっと唇を合わせてから、その頭を抱き締める。周囲の空気が――多分高山も――少しざわめいた。
「こういうことしたくなるの、兄じゃないだろ」
「……えっ…………え?!」
腕の中で朋生の体温が急に上がる。
「……名前、呼んでるってことは高山にプロポーズされたんじゃないのか?」
「さ、されてない、と、思うけど……ど、どっちにしても高山さんとは結婚しない」
視線を向けると、高山は肩を竦めて笑っていた。
「じゃあ、俺が帰るまで待っててくれるのか? 恋人として」
腕の中で一瞬動きを止めた朋生は、俺の胸を押し返しながら、気まずそうに身体を離した。
「恋人は……やだ」
「……は?」
「妹でいいよ。そのままでいさせて」
「無理だって、言ってるだろ。何が嫌なんだ」
床に視線を逃がしながら、朋生はぼそぼそと言い訳を始める。
「だって。彼女だと別れれるじゃん……旅先で指先一本で別れを告げられたら、それまでなのに。妹なら、喧嘩したって、外国にいたって必ず妹だし……何かあれば自動的に連絡くるし……」
俺は全く信用されていないことに呆れる。と、同時にそんな自分のどこがよくてしがみついていたいのかと不思議になる。優しくした記憶だってないのに。
搭乗のアナウンスが流れて、時間がないことを告げる。
「俺はもう、ともきを妹としては見られない。だから、もし、俺の籍に残りたいなら……そういう確約が欲しいなら、『妻』になるけど、いいのか?」
きょとんとした朋生は、しばらく黙って俺を見つめていた。
「ともき。時間がない」
「あ……う……その、お兄、は?」
「一緒に暮らすなら、ともきしか考えられない」
急かすようなアナウンスに、キャリーケースを拾い上げる。
「わかった。答えを聞きに帰ってくる。それなら、待ってられるな?」
まだ少し呆けている朋生にもう一度軽いキスをして、俺は身を翻した。
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