18

妹:さよならのかわりに

 目が覚めると見慣れた天井が飛び込んできた。

 どこか遠くで目覚ましのアラームが鳴っていて、おかしいなと身体を起こす。

 そこでようやく自分が服のまま寝ていて、化粧も落としてないことに気が付いた。

 気が付いたら、一気に昨日のことが思い出されて、ソファで放心していたはずなのに、とプチパニックになりかける。ベッドの脇には昨日着ていたジャケットが無造作に落ちてるし、どうしてだっけと考えながらそれを拾い上げた。

 ソファの所に落ちていたスマホのアラームを止めながら、うっすらと思い出す。

 昨夜ゆうべ、誰かに起こされた……?


 ゆめうつつで、どこまで現実だったのか判らないけど、お兄ちゃんが帰って来て……起きなきゃと思うのに、目は開かなくて。声は聞こえるのに、内容は全然頭に入ってこない。でも身体を預けているものからはお兄ちゃんの匂いがしていて。

 良かった。帰ってきたんだと思ったら安心してますます意識が落ちて行って……

 誰かの手が脇腹に触れてくすぐったくて、そんな悪戯をするのは高山さんかと……んん? その辺はもう夢かな?


 おそるおそるお兄ちゃんの部屋のドアを開けてみたけど、本が積んである以外殺風景な部屋には誰もいなかった。

 じゃあ、あれは全部夢だろうか。あたしは自分でベッドに入ったんだろうか。着替えもせずに。

 溜息をついて、何気なくもう一度確認した画面にトークの通知が入っていた。


 ――しばらく帰れない。心配ないから、ソファで寝るな


 お兄ちゃん!!

 慌てて画面を開いて、何度もその一文を読む。

 送信時刻は夜中? 早朝? まだきっと暗い時間。

 しばらくって、いつまで?

 ソファでって、やっぱり帰ってきたの?


 あたしはお兄ちゃんの部屋に入り込んで、クローゼットを開けてみた。

 以前、出張の時に使っていた小さ目のトランクがない。着替えもいくつか減ってる気がする。ぐるりと部屋を見渡すと、いつもコンセントに挿しっぱなしだったスマホの充電器も無くなっていた。

 改めて、お兄ちゃんが出て行ったという証拠を突きつけられて、泣きそうになる。

 夜中に起きられなかった自分を責めたくなる。


 あたしはそれをぐっとこらえて、お兄ちゃんに返信を打った。


 ――帰ってくるまで、待ってるから。冬になる前に起こしに来てね


 既読はつかないかもしれない。でも、ポップアップするから、お兄ちゃんの目には触れるだろう。

 帰ってこないとは言ってないのだから、可能性を信じることにする。

 これが最後と、一筋流れた涙を拭って、あたしは今日を始める為にシャワーへと向かった。



 * * *



 お兄ちゃんのいない生活が始まると、まず食生活が貧しくなった。健康を気遣うのも面倒になって、お弁当じゃなくてカップ麺やコンビニのお世話になりはじめる。

 元々マメじゃないんだよね、と反省しつつも改めたりしない。

 そんな日が一週間も続いたら、周囲の人たちも気付いて「お弁当やめたの?」なんて聞いてくる。「ジャンクなものが恋しくなって」なんて笑って誤魔化してるけど、先輩は「お兄さんいないの?」って鋭い質問を投げてきた。


「えっと、しばらく帰れないそうで」

「そうなんだ。サボり癖がつくと、戻らないゾ」


 あはは、と笑って、おにぎりくらいは作ろうかと頭の片隅で考える。荷物が少ないのはメリットなんだけどな。


「ね。お兄さんいないなら、久々コンパでも行かない? 週明けた、月曜なんだけどね」

「あー。ごめんなさい。その日デートです」

「……えぇ!? いつの間に!? どこの誰? え、ちょっと、話し聞かせなさいよ。今日は空いてるでしょ?」


 先輩は終業時間になるとぱたぱたと机を片付けて、まだ仕事が残っているというあたしを引き摺って、夜の街へと繰り出したのだった。




「……で、根掘り葉掘り聞かれて、終いには友達紹介とかしてもらえないのかって。コンパとか、したりするもんですか?」


 高山さんはくすくす笑いながら、刻一刻と海に近付いていく夕陽が見える岸壁に車を停めた。

 今日は、お休みだという高山さんに迎えに来てもらって、少し早めに会社を出たのだけど、先輩が野次馬みたいに出口まで付いて来て、運転席の高山さんにぺこりと頭を下げていた。そんで、「よろしく」って肩を叩かれたのだ。


「するよ。出会い少ないからね。割と歓迎される。声かけようか? 若い子がいいのかな」

「私の二つ上くらいだから、高山さんの同期とかだとちょうどいい気がします」

「了解」


 そのままじっと見つめられて、なんだか恥ずかしくなる。

 わざとらしくないように夕陽に視線を移したら、高山さんが甘い声を出した。


「ねぇ。本当に今日泊まってくの?」


 美味しいもの食べに行こうって言ってくれた高山さんに、あたしはご飯作るんでゆっくりしましょうと提案したのだ。


「お、遅くなったら、それでもいいかなって」


 あれから、お兄ちゃんからの反応はない。

 いつか帰ってくるかもしれないけど、いつまでもしがみついてもいられない。自分の中で区切りをつけようって、そう言う気持ちだった。


「それってさ、俺のこと好きになってくれたの? ……それとも、大空がいなくなったから、仕方なく?」


 驚いて戻した視線の先に、高山さんの意地悪く笑う顔が見えた。


「どっ……」

「大空、今朝までうちにいたんだよ。『俺がいるうちは朋生に知らせるな』って脅されててさ……俺の家なのに。ごめんね」


 あんぐりと開けた口をあたしは閉められなかった。

 高山さんとはトークでやりとりもしてたけど、そんな素振りは少しも無かった。あたしも、お兄ちゃんのことには触れなかったから、おあいこかもしれないけど。


「『朋生を頼む』って言うからさ、じゃ、一筆くれって頼んだの。俺はさ、あいつみたいに妹として守ってやる気はないからさ。まあ、それも君の気持ちが大前提だぞって念を押されたんだけど」


 そう言って、高山さんは後部座席にあったボディバックを手に取って、中から一枚の紙を取り出した。

 畳まれていたそれを開くと、赤紫色で印刷された文字が見える。

 角ばった、力強い字で高山さんの名前が書いてあって、はいって軽く渡されるものだから思わず受け取った。


 婚姻届。


 左上にはそう書いてある。


「大空が向こうで何かあって戻って来られなくても、承諾は取ってあるって証拠。今すぐどうこうとは思ってないから、お守りだと思って」


 途中から、高山さんの声はあたしの耳を右から左に通り抜けていった。

 『妻になる人』の欄は空欄で、右側の証人の欄に神経質そうな、見たことのある字が並んでる。


「おおぞら たかし」

「……え。なんで『たかし』? 大空、そう名乗ったの? わざわざ難しく読まなくても」


 高山さんは不思議そうな顔をした。

 だよね。そんなわけないよね。だって、でも、それなら言いたくなかったのが解る。


「お兄ちゃん、どこ行くって言ってましたか」

「口止めされてるんだけど」

「じゃあ、帰ってくるって言ってましたか」


 高山さんは黙り込んだ。


「言質取ってないんですね?」

「行先は口止めされたけど、乗る飛行機は分かるよ。二十時十五分発、東京行き」


 まだ沈み切ってない太陽に目を向けてから、時計を確認する。

 十九時〇二分。


「お願いします。行ってください。じゃなきゃ、この車貸して……!」


 どっちにしたっていなくなってしまうなら、ちゃんとぶつけておこう。空っぽでも、冷たくされても、あたしは――

 縋りつくように高山さんの腕を掴むと、彼はふふ、と笑ってあたしの頬を撫でた。


「俺、振られちゃう?」

「ごめんなさい」

「謝らなくてもいいよ。飽きたら捨てていいって言ったでしょ。ほんと、君達ハラハラさせるよね」


 まるでその結末が見えていたかのように、高山さんは笑いながら車をバックさせた。

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