19

妹:エピローグ的なプロローグ

 空港の人達にはさんざん怒られて、それでも最後には嫌味のように「お幸せに」と解放してくれた。

 高山さんは良かったねと笑って、車を回収するようにってお兄ちゃんの伝言を伝えてくれる。


「……色々ありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げると、「いいのいいの」と軽い声。


「大空帰ってきたら、四人で出掛けようね。俺も、朋生ちゃん見習ってちょっと頑張るから」

「え?」


 にこにこと笑顔のまま、お兄ちゃんの車を一緒に探してくれて高山さんは帰っていった。

 ここで死ぬわけにはいかないと、妙に安全運転で帰り着いて、ようやく緊張の糸が切れる。

 みんなの前でキスされた恥ずかしさをお風呂に沈んで誤魔化したり、そういえば、今日のキスはシリコンっぽさは無かったなと反芻してみたり……


 あんまりあっさりとプロポーズみたいなことを言うから、どこまで信じていいのか分からない。あたしの我儘を面倒臭いからと思って言ってるだけなら、ちゃんと話し合わないと。とりあえず、帰ってくるって、それだけは飲み込めた。

 お風呂の中でひと暴れして、疲れたところで波立った水面に頬を叩かれながら、「陵」と呟いてみた。


 『リョウ』


 お兄ちゃんと出会う前から、何度も口にした名前。

 友達以上ではあったけど、恋人にはなれなかった人。

 彼を呼ぶたびに、お兄ちゃんはどんな気持ちで聞いていたんだろう。涼に当たりがきつかったのも、きっとそのせいだ。同じ名前なのに、自分には向かない呼びかけ……


 あたしの記憶がない時は、それを刺激しないようにと黙っていたんだろうけど、よりにもよって「本人りょう」で記憶取り戻しちゃったし、その後あたしがいくら呼んでも、自分が呼ばれていると思えなくなるよね。

 言えなく、なるわけだ。


 お兄ちゃんが帰ってきたら、呼んであげた方がいいのかな。呼ばない方がいいのかな。

 あれ? っていうか、お兄ちゃん、いつ帰ってくるの? 電話は繋がるの?

 肝心なことを何ひとつ聞いてないことにようやく気が付いて、あたしは深い溜息をついた。



 * * *



 朝から霧がかかっていたその日、わざわざ会社を休んで、あたしはやきもきしながら空港に向かった。昼過ぎは晴れることが多いとはいえ、霧のために欠航になったり、他の空港に降りるなんてことはしょっちゅうだ。

 途中から晴れてきて、八月の容赦ない日差しが降り注ぐ。暑くても運転席で右腕だけ焼けるのはごめんなので、汗をかきつつ薄手のカーディガンを脱ぐことはしなかった。

 到着ロビーでそわそわしながら待っていると、後ろから声がかかる。


「朋生ちゃん」


 振り返ると、高山さんだった。


「どうしたんですか? お兄ちゃんのお出迎えですか?」


 平日なのに。

 首を傾げると、可笑しそうにくすくす笑う。


「さすがに、大空の為だけには来ないかなぁ。千早が、この後の便で帰ってくる予定なんだ。半休とったから、ついでに顔見ようかと思ってね」

「千早さん、どこか行ってたんですか?」

「うん。独身最後だからって、友達と関西に行ってたんだ」


 いいですねって言ったら、今度みんなで行こうって誘われた。

 高山さんは結局、千早さんとよりを戻したみたいだった。ちょっとの間だったけど、あたしと付き合ってたことがしこりになったりしないのかな、と心配になったんだけど、見ている限り、相変わらず二人は仲がいい。

 これが大人の余裕なのかは判らないけど、変にギクシャクしたりしないで済んだのは嬉しかった。


「あ、来たよ」


 高山さんがそう言って片手を上げたので、慌てて視線を向ける。

 何故か立ち止まってるお兄ちゃんは上着こそ腕にかけてるものの、黒のベストに濃いグレーのシャツとネクタイで、いつものサングラスも相まって、どこかのマフィアみたいな出で立ちだった。


「お兄!」


 あたしも片手を上げて歩み寄ろうとしたら、高山さんが肩を掴んで耳元に顔を寄せて囁いた。


「あいつ、草食ですって顔してるけど、絶対肉食だから。覚悟しなね」


 草食とか、肉食とか、そういう表現がお兄ちゃんには全く合わなくて、今夜のメニューの話かもしれないと、にやにや笑う高山さんの顔を確かめるように見つめてしまう。次の瞬間、いつの間にか近付いてきたお兄ちゃんに腕を引かれて、引きずられるようにその場を後にする。


「え、ちょ……高山さん、また!」


 首を捻って振り返ると、高山さんは笑いながらひらひらと手を振っていた。

 お兄ちゃんはただいまの一言も無く、仏頂面で前しか見ていない。


「挨拶しなくて良かったの?」

「いい」


 久しぶりのお兄ちゃんの声は不機嫌で、記憶を取り戻したばかりの頃を思い出す。

 あの頃のお兄ちゃんが一番冷たかったなぁ。

 何を怒っているのかよく分からないまま車まで戻ると、二人して運転席側のドアの前に並んでしまった。


「……朋生はそっちだろ」

「え? ……あっ」


 しばらく自分で運転していたから、すっかりその気だった。

 助手席に乗り込んで、シートベルトを締める。車が動き出してからそっと聞いてみた。


「なんか、怒ってる?」

「べつに……高山と来たのか?」

「そんな訳ないじゃん。千早さん迎えに来たんだって」


 ふぅんって言ったっきり、お兄ちゃんは家まで口を開かなかった。

 理由を考えてみたけど、やっぱりよくわからない。こういう時は考えても無駄だなって、早々にあたしは諦めた。お兄ちゃんと暮らしていくには、細かいことにこだわってちゃ駄目なのだ。

 「ただいま」って普通に家に入ってから、そうだと振り返ってにっこり笑う。


「お帰りなさい。陵にぃ」


 ぴたりと動きを止めたお兄ちゃんが、じっとあたしの顔を見る。

 五秒、十秒と時間が過ぎて、だんだん心配になってきた。


「実は……やっぱり、帰ってきたくなかった?」


 寄せられた眉に不安が増して来て、先に窓を開けてこもった空気を入れ替えちゃおうと、お兄ちゃんから目を逸らして窓に近付こうとした。


「朋生、まだ俺は返事を聞いてない」


 ぐいと腕を掴まれ、お兄ちゃんに向き直される。


「またってなんだ。高山とまだ続いてるのか?」

「えぇ? 高山さんなら、千早さんと結婚する予定だよ? 続いてると言えばそうだけど、あたしを頼むって言ったの、お兄だよね?」


 ちょっと怯んだ様子に呆れて、あたしは畳みかけた。


「だいたい、トーク送ってもそっけないし、電話には出てくれないし、空港での出来事は夢か、お兄に丸め込まれただけだったんじゃないかって、かなり疑ったんですけど。高山さんがちゃんと俺も見てたし聞いたよって言ってくれなかったら、待ってられなかったかも。お兄こそ、あたしになんか言うことあるんじゃないの?」


 何度か開けては閉められる口を見ながら、お兄ちゃんの言い訳を待つ。

 つと逸らされる視線や、ほんのり赤みの差した頬に妙にを感じて、あれ、と心の中で呟いた。気のせい、かな。


「……思わなかったんだ」

「ん?」

「向こうであんなに朋生に会いたくなるなんて。帰らない選択肢もあるなんて、甘かった。時間がなかったとはいえ、答えを聞かずに行ったこと、後悔した。朋生は画面のやり取りでは全然変わらないし……」


 変わらないのはお兄ちゃんもなんだけど!

 喉まで出かかったけど、話の腰を折るのは悪いかと、我慢して続きを待つ。会いたいとは思ってくれてたみたいだし。


「声なんか聴いたら、もっと会いたくなるじゃないか。我慢して我慢して、やっと会えるって戻ってきたら、高山と見つめ合ったりしてるし。行く前にあんな風に言ったのは、俺を帰すための二人の芝居だったんじゃないかって……」

「えっ。ち、違うよ? 高山さんが変なことを言ったから……」


 なんでそうなるの?! ん、もう! お兄は分かりづらいんだよ! 顔合わせてたってそうなんだから!

 焦ってどう説明しようかと迷ってるあたしをもう一度じっと見て、お兄ちゃんは囁くように言った。


「名前、もう一度呼んでみて」

「え。リョウ」


 お兄ちゃんは微妙な顔をしたけど、多分、あたしも微妙な顔をしてたんだと思う。

 だって、しっくりこない。当たり前だけど。

 お兄ちゃんがふっと息を吐いたから、慌ててあたしは言い直した。


「陵にぃ」


 今度は大丈夫でしょって上目づかいで様子を窺ったら、ぐいと引き寄せられて、きつくきつく抱締められながら、噛みつくようにキスをされた。

 面食らったけど、もう心がこもってないなんて絶対に思えなくて、あたしもお兄ちゃんの背中に手を回す。

 求められすぎて酸欠になるんじゃないかと思う頃、ようやく少しだけ唇を離して、お兄ちゃんは改まった声を出した。


「朋生。朋生を、俺にください」


 お兄ちゃんもあたしも両親にはもう挨拶できない。だから、そんなフレーズを聞くとは思ってなかった。

 あんな情熱的なキスの後で、それが芝居かもなんて疑う気持ちも沸かない。


「……はい」


 くすぐったい気持ちのまま、あたしはお兄ちゃんからのプロポーズに頷いたのだった。

 続いて降ってきた優しいバードキスに瞳を閉じる。と、突然ぐいと抱き上げられた。

 驚いてる間にお兄ちゃんの部屋に連れ込まれる。あんなに入るなって言われていたのが嘘みたいに。

 ちゃんとビシッとベッドメイクしておいたベッドの上に降ろされたかと思うと、額をぐいと押し付けられてひっくり返された。間を開けずに腿の間にお兄ちゃんの膝が割り込んで、そこだけベッドが沈み込む。

 視線を向けた時にはベストは脱ぎ捨てられていて、お兄ちゃんはネクタイの結び目に指をかけて、それを左右に揺すりながら緩めていた。


 一瞬、マフィアに手籠めにされる名も無い女性の姿を思い浮かべながら、うっかり、ほんと、うっかり、それに見惚れてしまった。冷たく見える視線も仕種も、あたしはどうしようもなく好きらしい。

 しゅるりといい音を立てて外されたネクタイも、ベッドの脇へ捨てられる。袖口のボタンと襟元のボタンを外したところまで見てから、ようやく見惚れてる場合じゃないと起き上がろうとした。


「お兄」

「ん」


 浮いた肩をなんなくベッドに押し戻して、お兄ちゃんはあたしのノースリーブのシャツのボタンにも手をかけた。


「ちょ……ちょっと待って」

「嫌だ」


 リズミカルにボタンを外す手を掴もうとして、逆に絡めるように繋がれた手は、離れる気配が無い。

 両方の手をそうやって拘束されて、お兄ちゃんは残りのボタンに口を寄せて器用に外していく。


「ね。あの、せめてシャワーとか! 汗かいてるし、ま、まだ明るいし……」

「汗はすぐまたかくから」

「そ、そういうことじゃなくて……さすがに、心の準備が……!」


 ちょっと頭を上げて、あたしの顔を見たお兄ちゃんは、ふっと意地悪い笑顔を浮かべた。

 あ、ちょっと貴重!

 って。そうじゃない。あたしっ!


「くれるって、言っただろ」


 ガツンと殴られて、目の前がちかちかしてる感覚に陥った。

 そっち!?


「ぷ、プロポーズ的な、アレ、だと……」

「もちろん、そっちの意味も込めた。けど、今更ムードとか、俺に期待しないだろ?」


 いや。うん。そういう期待は確かにしてないんだけど……あたしにだって、今日はお兄ちゃんの好物作って、お酒飲んで、とかプランがあったわけで。


「手が早いって、高山さんのこと言えないじゃん……」

「は? 二年も暮らしてるんだぞ? キスだけで一ヶ月お預けくらわされて、これ以上待てるか。何かを欲しいなんて久々の感覚、我慢の仕方も覚えてない」


 あたしの中で空港の高山さんがにやにやと手を振っていた。

 ……肉食。肉食ね。


「ハンバーグ、作ろうと思ったのに」

「今は、朋生が欲しい」


 真面目に言われて、力が抜ける。もうこれ以上拒否おあずけは無理じゃん?

 もっと本気で嫌がったら、多分やめてくれるって知ってるから、あたしは諸々を諦めた。嫌なわけじゃないんだ。ガツガツしたお兄ちゃんが意外で、ちょっと恥ずかしいだけで。どこにそんな気持ちを隠してたんだろう……


 ……あぁ。違うのか。隠してたんじゃない。んだ。

 そう解ったら、なんだか胸がいっぱいになった。

 空っぽじゃなくなったのなら、その一部をあたしが貰ってもいいよね?


「お兄……あたしだけあげるのはなんか不公平だから、あたしにもお兄をちょうだい?」


 抵抗をやめたので、離してくれた手でお兄ちゃんの顔に触れる。

 少し驚いた顔は、すぐに崩れて、可笑しそうに喉の奥で笑った。

 ああ。だめだ。こんなにいろんな笑顔を見られるなら、何でも許してしまいそうだ。


「朋生、それ、にしか聞こえない」

「……えっ。あ……や、違う! そういう意味じゃ……!」


 慌ててタコみたいになってるあたしの耳元で、お兄ちゃんは「もう一回言って」って意地悪く囁いた。




 * 終 *

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