兄:長い夜

 うとうとしかけたところにスマホの呼び出し音が鳴って、何事かと緊張する。仕事中なのだから、かけてくるのは朋生くらいしかいないし、朋生にしてもトークを送ってくるくらいでコール音を聞くことはなかった。

 半身を起こしてスマホを耳に当てる。


「……ともき?」

『おー。早い。さすが『お兄ちゃん』』


 聞こえてきた声に反射的に舌打ちをして、また身体を横たえる。黙って切ってやろうとして、表示は朋生のスマホになっていることに気付いた。


「何してる。ともきはどうした?」

『今、送ってくとこ。量は飲んでなかったんだが、千早のペースに巻き込まれたのか仲良く後ろで眠ってる』

「後ろ?」

『タクシー。起きなかったら、家に上がっていいか? たぶん、千早は起こせば起きるはず』

「千早も一緒だったのか」

『会いたがってるぞー。今日の恩を売るから礼のひとつでも言ってやれよ』


 にやにやした高山の笑い顔が見えるようだった。


「潰したのはお前たちじゃないか。送り届けてくれることには礼を言う」

『おぅ。もっと感謝しろ』

「嫌だ。それ、ちゃんとともきに返せ。切るぞ。仮眠時間は限られてる」

『『これから帰ります』って帰るコール、トークに送ろうとして眠気に勝てずに寝ちゃったんだよ。可愛いな。可愛いだろ?』


 くすくすと楽しそうに笑う声が癇に障る。


彼女千早の前で、よく他の女褒められるな」

『千早とはもう付き合ってないよ。お前が、いなくなったからな』


 そこだけ真面目なトーンになって、すぐにまたからかうような口調に戻る。


『だからぁ、久しぶりにちょっとほっとけない系に会ってテンション上がってる。千早も楽しそうだった』

「……よかったな」

『それだけ?』


 他に何を言えと?


「酔っ払いに構ってる時間が惜しい」

『大空、千早は悪くないんだ』

「知ってる。悪いのは、だいたいお前だろ」

『……ひでぇ。言い訳くらいさせろよ』


 自嘲気味な笑いに不意に時間の流れを感じる。話が行ったり来たりするのは酔っ払ってるせいなのか、わざとなのか。


「言い訳なんてしなくていい。終わったことに興味はない。じゃあな」


 大空、と呼びかける声を無視して通話を切る。さすがに、かけ直しては来なかった。




 浅い眠りから(夢を見ていたのかもしれない)アラームの音で引き戻され、もうひとりと交代して、ずらりと並ぶモニターの前に座る。コーヒーを手元に基本、座っているだけだ。夜中になれば動く物もほとんどない。

 時々、車で海を見に来る人物もいる。そういう車はカメラから見切れてしまうのだが、暗い海をどういう気持ちで見ているのかと余計な気を回してしまう。明るくなって車が……あるいは人が、沈んでいないか確かめてしまうくらいには。今の所、車が沈んでいたためしはない。もう長く務めている人は、近くで落ちればエンジンの音も着水の音も聞こえるからすぐわかる、なんて言っていた。


 水底を確認してしまうのは、暗い水面に一歩踏み出したくなる気持ちを知っているからかもしれない。

 ゆらゆらと揺れる闇に身を任せてしまいたい気持ちを。


 ふるりと頭を振る。

 高山が、余計なことを言うから。

 別に誰も恨んでないし、怒ったりもしていない。あいつらが気に病むことはないのに――

 部屋の中に響く秒針の音とモニターに浮かぶ白黒の映像が、やけに時をゆっくりと感じさせて、もう見ても仕方ない過去を連れてくる。

 終わったことは取り返せない。思い出しても痛む心も無い。

 それでも。

 文字の海に浸れない時間は退屈だろうとばかりに。



 * * *



 交番勤務を経て三年程度。試験や講習を乗り越えて俺は刑事としての一歩を踏み出した。

 後輩が来て嬉しいのか、やけに教えたがりの先輩ともまぁ、上手くやっていた。直属の上司である係長とは相性が悪いのか、意見を言っても取り合ってもらえなかったり、小さなことで怒られたりしていたのだが。

 新体制になってからいくつかガサ入れも経験したし、銃器や薬物と絡むのはやくざ者が多いので荒事にも慣れてきた。そんな中の、大きな事件ヤマだった。


 港近くの使われていない古い倉庫で拳銃の取引があると情報が入った。裏取りをしてバイヤーの動向を掴み、念の為数日張り込んでいると事前の情報通りに動きがあった。一斉に踏み込む。

 俺やここに配属になって再会した同期の千早、ひとつ先輩の高山なんかは外に残って逃走経路を塞ぐ役割だった。

 緊張感の中、確保のコールがインカムから流れてくる。ほっと気を緩めかけた時、係長の鋭い声が耳を貫いた。


『ひとり逃走! 南側に回れ!』


 南側。千早のいる方だ。

 建物を回り込んでいくと、窓から転げるようにして男がひとり飛び出して来た。バランスを崩して膝をつくが、そのまま一回転して素早く立ち上がる。

 ざっと視線を走らせ千早を目に留めると、手にしていた拳銃を持ち上げた。

 俺と犯人の間に千早。彼女の背中が一瞬怯んだのが分かった。


「千早! 伏せろ!」


 千早は振り向かずに俺の声に反応する。迷いなんて微塵も無かった。そうするのが当たり前だと思っていた。

 左脇のホルスターから拳銃を取り出して構える。ザザ、とアスファルトの上を靴が滑った。犯人の拳銃はまだこちらを向いていなくて、驚く男が少し遅れて銃口を向ける。


「馬鹿! 撃つな!」


 パパンッと乾いた音が二つと、その声が重なって、千早と犯人の間に誰かが飛び込んでくる。

 弾かれたように伸ばした右腕を後ろに持っていかれて、そいつは倒れ込んだ。


「高山さん!!」


 一瞬呆然としていた俺は、その声に正気を取り戻して駆け寄った。同じように動きを止めていた犯人は他の刑事に取り押さえられている。


「……って〜……あー、もう。威嚇も無しかよ! 意外とやんちゃかっ!」


 威嚇発砲なんてしてる間に千早が撃たれるかもしれなかった。何が悪いのか解らない。

 でも、右腕を抱え込むようにいている高山のスーツは見る間に赤く染まっていって……


「救急車!」


 誰かが叫んだ。


「いらねぇ! 騒ぎになる。誰か、車出してくれ」

「高山……」

「ん?」

「……すまん」

「俺に謝っても処分は軽くねぇぞ。気持ちは分かるがな。分かるが……ルールだからな」


 キュっと音を立てて車が止まり、少し青褪めた高山が後ろに乗り込んでいく。

 犯人の撃った弾は誰にも当たらずに、石造りの塀にめり込んでいたようだった。

 

 

 

 千早には礼を言われたけれど、報告を受けた係長はカンカンだった。

 三日間の自宅謹慎の間に拳銃密売犯検挙と警官がひとり負傷のニュースを見て酷く嫌な気分になった。誰がどう握り潰したのか、俺の発砲は無かったことになっている。

 そんなことをしても、高山を負傷させたのが俺だという事実は変わらないのに。

 謹慎が明けて係長から懇々と諭される。

 

 おまえは撃たなかった。いいな。だが、疑っている奴がいない訳じゃない。だから、撃ったでしょうと踏み込まれたら威嚇発砲でしたと言え。声掛けも威嚇も無かったなどということは通らない。なんだその顔は。気味の悪い瞳で睨むな! 不満か? 何が不満だ? 目撃者もいない。ラッキーだったじゃないか。それとも、責任をとって辞めるなんて言いだすのか? 辞めたって、発表したものは覆せない。そのくらい、分かるだろう? まあ、別に引き止めはしないがな。お前みたいなのはどうせまた問題を起こすんだ――

 

 しばらくはデスクワークでもしとけ。

 「しばらく」がいつまでか言われぬまま、書類を渡される。

 千早と高山を見舞いに行って、逆に二人に励まされたが、情けない気分はなかなか上向かなかった。

 正しいことをしたはずなのに。

 それが理由で色々言われるのは構わなかったのに。

 両親も危ない仕事だと心配しながら、憧れの職に就いたことを喜んでくれていたのに。

 書類の書き方ひとつにもねちねちと嫌味がついてくる毎日。

 

 こんなことも出来ないのか。いくら射撃が上手くてもなぁ。辞めた方がいいんじゃないか。

 

 ひきつけるような笑い声が、耳にいつまでも残る。

 奥歯を噛みしめすぎて顎の関節が鈍く痛んでいた。

 週末。先に帰った千早は高山のところに行くと言っていたから、病院によって帰りに一緒に飯でも食おう。一杯くらい付き合ってくれるだろう。

 だけど、結局誘えなかった。

 うっかりノックもせずに個室のドアを開けたから……二人のキスシーンを見てしまって、ぎょっとした高山の「まずい」って表情にそのままドアを閉めた。


 知らなかった。

 右手を使えないから不便だろうって日参してたけど、そういうことになってたなんて。

 知らなかった。

 自分がこんなにショックを受けるなんて。


 俺が、千早を、好きだったなんて。


 ひとりになりたくなくて、人の多い居酒屋のカウンターでいくら飲んでも酔えなくて。

 日付が変わる頃、ようやく部屋に戻ると、留守電のランプが点滅していた。なんとなく縛られたくなくて携帯電話は持っていなかった。しばらく遠くからちかちか光るランプをただ見つめて、それから観念したようにそのランプに指を寄せる。

 高山か、千早だろうと思っていたのに、聞こえてきたのは固い、男性の声だった。


 ――ご両親が、事故に……


 病院名を確認して、慌ててタクシーを捕まえる。

 案内されたのは病室ではなく、遺体安置所だった。


 その後のことは嵐のようだった。哀しむ余裕すらなかった。

 親戚はいなかったから、署の方に手伝ってもらってなんとか葬式は出せた。高山も千早も手伝ってくれたけど、上手く感謝も示せなかった。何もかもが嵐に吹き飛ばされて、俺の中を空っぽにしてしまったみたいだった。


 納骨を済ませて一息ついたら、空っぽに隙間風が吹きこんだ。

 退職届を書いて係長に渡し、次の日からはもう仕事に行かなかった。


 うまく寝付けなくなり、夜のドライブが増えた。

 ある日偶然港に辿り着いて、車の中から黒い水面を眺めていた。もっと近くで見たくなって、車を降りて……

 どうしたのか覚えてない。

 ゆらゆらと誘う闇へ一歩、踏み出したのか。踏み出さなかったのか。



 * * *



 冷めたコーヒーを飲み干して、新たなコーヒーを注ぎに立つ。

 画面を一瞥しても変化はない。

 少し煮詰まったコーヒーの香りが鼻をくすぐると、くすくす笑う高山の声が聞こえてきた。


 ――可愛いな。可愛いだろ?


 お前の声は可愛くない、と心の中で突っ込みを入れてコーヒーを一口すすり、大して座り心地の良くない椅子を軋ませて、俺はまた変わり映えのしない映像に視線を向けた。

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