第36話 ヴィシュヌとアーシャ

 パールバティー号は数日の航海でガイアレギオンの本国の港に辿り着いた。

 航海中に貴史達はハヌマーンやムネモシュネと仲良くなってしまい、再び刃を交えるような状況になったら非情に徹することが出来るだろうかと貴史は複雑な心境だった。

「ヤースミーン、僕たちはハヌマーンさんと親しくなってしまったけれど、もしもまた戦うことになったらその時躊躇なく剣が振るえるだろうか?」

 貴史はヤースミーンに尋ねたが、ヤースミーンはあまり深刻には考えていないようだった。

「私達は軍人ではありませんから、たとえヒマリアとガイアレギオンが戦争をしているとしても戦う義務はありません。戦いたくなければ逃げてもいいのですよ」

 貴史はそんな単純な話なのかなと疑問に思うが、現にムネモシュネは貴史達を賓客扱いしてくれるため、極めて居心地よく過ごしているのは事実だった。

 港に着いた貴史達はムネモシュネとハヌマーンに案内されて上陸し、ムネモシュネの居城までガイアの街を歩くことになった。

「皆さん、ここが市民の憩いの場となっている中央公園です」

 ムネモシュネが立ち寄ったのは市街地の中ほどに美しく整備された公園だった。

 世話の行き届いた花々が咲き乱れる花壇に囲まれて銅像が設置され、大きな噴水が涼し気な雰囲気を醸し出している。

 楽しそうにガイアの市街地を見学していたララアは銅像を見ると表情を変えた。

「この銅像はヴィシュヌに似ています。それにそっちにある銅像は私の友達のアーシャに面影が似ています」

「その通りです。こちらの銅像は我が国の開祖の象として国民に親しまれており、そちらはアーシャの像と呼ばれて開祖様がヒマリアに滅ぼされた祖国を思って作らせたものだと言われています。恋愛成就のご利益があるとされていて想いを抱いた少女がコインを投げ込むため池には大量のコインがたまっているのですよ。私も乙女の頃にはこっそりコインを投げたものです」

「ムネモシュネ様がそのような可愛らしいことをされていたとは初耳ですな。想い人が誰だったか知りたいものです」

 ムネモシュネは微妙に険のある雰囲気でハヌマーンに答える。

「大きなお世話だ。王室の婚姻話に首を突っ込んで闇に消えた人間が数多いことを知らぬのか?」

 ムネモシュネとハヌマーンは観光案内気分で呑気な会話を交わしていたが、話を聞いていたララアの目には涙があふれていた。

「私達はヒマリアのスパイが井戸に入れた毒によって全滅したのですが、アーシャも犠牲者の一人で私の親友でした。ヴィシュヌが出陣する前にアーシャは自分が刺繍したハンカチを渡したのですが、ヴィシュヌはそのことを忘れられずに銅像を作ったのですね。ほら、あの銅像はハンカチを渡そうとしている姿なのです」

 ララアの話を聞いたムネモシュネは意外そうに銅像を見ながら話す。

「実はあの銅像が捧げ持っているのが何か私たちの間でも論争があったのです。主流派の意見としては、「アーシャ様」は本国の出来事を知らせる文書を運び、開祖様にとどけて自らも毒のために力尽きて亡くなったというものでした。出陣に先立って刺繍入りのハンカチを渡すところだったとは思ってもいませんでした」

 ヴィシュヌやアーシャの話は当事者のララアにとっては最近の出来事のように感じられるが、ララアが目覚めるまでに二百年の歳月が過ぎており、子孫にあたるムネモシュネにとってそれは歴史上の出来事だった。

 ララアは親友の銅像を前に静かに涙を流していたが、ムネモシュネはその姿を見てハヌマーンと密かに目配せをする。

「それではあなたにとってはヒマリアはいくら憎んでも飽き足らない仇敵のはず。ヒマリアに与するよりも私達と共にヒマリア討伐のために戦いませんか?」

 ララアはムネモシュネの言葉を聞いてゆっくりと首を振った。

「私は自らに呪いをかけアンデッドウオーリアーとしてヒマリアに復讐するために眠りについていたのです。しかし、記憶を失いここにいる人達と共に暮らしその後にあなたとエレファントキングの城で戦い、呪いを受けた時に過去の記憶を取り戻したのです。私の目の前にはヒマリアの王位を継承する兄妹がおり、私は城に潜ませていたアンデッドウオーリアーをすべて呼び覚ましヒマリア軍を圧倒して王子の命を奪おうとしました。しかし、その王子は自らの命と引き換えに兵や民たちの命を助けてほしいと懇願したのです。結局私はその王子を殺すことが出来ませんでした」

 ハヌマーンはララアを労わるように穏やかな口調で言った。

「ララア殿が記憶を失っていたのならばこれまでの経緯も理解できるというもの。無理なことは申しませんが我々のもとに逗留していただきこれからの身の振り方を考えられてはいかがかな。なにせこの国はあなたのお兄様が作られた国ですから」

 ララアは態度を決めかねた様子でアーシャの銅像を見つめており、貴史は彼女がハヌマーンやムネモシュネの陣営に加わるのではないかと懸念を抱いたが、引き留めるための言葉を思いつけないでいた。

 貴史達はその日のうちにムネモシュネの邸宅に招待され、各自が豪華な個室をあてがわれて宿泊することになった。

 その夜、ハヌマーンはムネモシュネを訪ねるとララアの扱いについて相談した。

「ムネモシュネ様、ララア殿がヴィシュヌ様の妹君なのはどうやら事実のようですな。その上ララア殿はヒマリア王室との争いは好まぬ様子、この際彼女を神輿に担いで厭戦気分を抱える穏健派を取り込み。我らがガイアレギオンの政権を握るのはいかがでしょうか。北の果てで衰退しつつあるヒマリアを攻めるより、この地で通商を発展させ豊かな国を築く方がよほど民草のためになるというものです」

 ハヌマーンは剣呑な提案をムネモシュネに持ち掛けるが、ムネモシュネも簡単にうんとは言わない。

「簡単に言ってくれるがお前は私に母に弓を引きクーデターを起こせと言っているに等しいのだぞ。頭の固い母はヒマリア憎しで凝り固まっているため、翻意させるのは到底不可能。その上幼い弟は母の言いなりだ。私が和平路線を持ち出すのは正しいことかもしれぬがそれは私が肉親を相手に血で血を洗う内戦を起こすことなのだ。そなたはそれを理解して話をしているのかな?」

 ムネモシュネの言葉は辛辣だが彼女自身が乗り気であるかのような表情だ。

 ハヌマーンは落ち着いた口調でムネモシュネに答えた。

「無血クーデターという言葉がありますが、私が目指すのはそれです。電撃作戦で軍首脳部を掌握すれば、母君とて無駄な抵抗はしないはず、このハヌマーン一命を賭してもムネモシュネ様に勝利を引き寄せて見せましょう」

 侵攻作戦を指揮して敗北を喫した二人は失脚したも同然であり、ララアは起死回生のクーデター作戦の鍵となる存在だった。

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