9.決着と居場所

「ゴホッ、ゴホッ! 生き、てる……何と、か……なった……」

 ふらつきながら煙幕が充満するバスルームから出たクロガネは、凄まじい頭痛で途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めていた。

 美優のサポートがあったとはいえ、限界ギリギリの賭けだった。

 暗闇に包まれた狭い室内に煙幕とあっては、クロガネも〈アステリオス〉を視認できない。

 そこでまずは、美優の報告で大体の距離と位置を把握する。

 次に、発砲と同時に『生存の引き金』で体感時間を引き延ばし、気流の変化による煙の動きで〈アステリオス〉の正確な位置を割り出したのだ。

 ここで〈アステリオス〉がクロガネの位置を先に捉えたら失敗だったし、『生存の引き金』発動中に〈アステリオス〉が動かなかったら煙の動きを読めずに自滅していた。

 位置を把握したら煙幕に紛れて死角に移動する。身も蓋もない言い方をすれば、視界に入らなかっただけで〈アステリオス〉のすぐ目の前にクロガネは居たのだ。そして鏡に映ったクロガネに気を取られた隙を突き、『破械の左手』で〈アステリオス〉のAIを破壊した。

 ……我ながらよく成功させたと思う。どれか一つでもタイミングが僅かに狂えば――否、美優の存在がなかったら確実に死んでいたのだから。

 全身のあちこちから感じる痛みと疲労に耐え、美優の元へ辿り着く。

「クろガネさン……! ゴ無事デすか?」

「何とか。これ以上の戦闘はないと思いたい……」

「それはフラグと言うやつだろ」

「ッ!?」

 安否を気遣う美優に苦笑して応えると、背後から第三者の声が割って入る。

 振り向き様に拳銃を向けようとしたクロガネは、ピタリと動きを止めた。

「貴方は……」

「久しぶりだなクロガネ、もう二年になるか?」

 夜明けも近くなり、窓の外に広がる闇夜のとばりは薄れてきた。部屋の奥の暗闇から、薄闇へ歩み出たのは壮年の男性。やや小柄だが、背筋を伸ばし威風堂々としたその佇まいは見た目以上に大きく、若々しく見える。

 まさに支配者の貫録を身に纏った獅子堂家現当主、獅子堂光彦がクロガネの前に現れた。

 彼の背後には大型ライフルを背負った褐色肌の少女と、涙目の玲雄を後ろ手に拘束した長身の男が控えていた。どちらも見知った顔だ。

「……ええ、お久しぶりです、ご当主。ブラボーゼロにシエラゼロも」

 懐かしい顔ぶれと再会したクロガネの声は、僅かに緊張と警戒が帯びていた。

 後悔はしていないが、かつての雇い主の息子を痛め付けたのだ。敵対する理由としては充分過ぎる。

 いつでも戦闘に移行できるよう、さり気なく周囲を確認する。

「息子さんが居るってことは、【パラベラム】……トレンチコートの男はどうしました?」

「ほぅ、【パラベラム】の者だったのか。奴ならここの二人が仕留めたよ」

 褐色肌の少女――シエラゼロが両手に持った〈ヒトガタ〉の頭を掲げて見せる。あの男の正体はオートマタだったのか。

「大体の事情は〈ドールメーカー〉から聞いておるよ。愚息が随分と迷惑を掛けてしまったようだ。本当にすまなかった」

 クロガネは唖然となる。無理もない、鋼和市の支配者が頭を下げて謝罪してきたのだから。

「親父ッ! 俺はコイツに撃たれたんだぞッ! 謝る必要は無いだろうッ! さっさと殺してくれッ!」

 玲雄が光彦の謝罪を非難した上で懇願する。光彦はうんざりとした様子で顔を上げ、玲雄に振り返った。その表情には怒りの感情がありありと浮かんでいる。

「黙れッ! 貴様の勝手でどれほどの損害が出たと思っとる!? 他人様ひとさまにまで取り返しのつかないことを仕出かしておいて、もう貴様を息子とは思わんッ! 更正を期待して今まで甘やかしていたのがそもそもの間違いだったわッ!」

 父親の恫喝に怯えた玲雄の胸倉を掴み、クロガネの方へ突き出す。無様に倒れ込んだ玲雄は戸惑った様子でクロガネと光彦を交互に見上げた。

「……命令だ〈〉、この愚息を殺せ」

 玲雄が息を呑む。クロガネが側近と同名のゼロナンバーで凄腕の暗殺者であったことに気付いたようだ。

 クロガネは真顔で光彦を見据える。

「ご当主、俺はもうゼロナンバーじゃない。その命令は受け付けられません」

「……そうだったな、では〈ブレイド〉」

 主の命を受け、〈ブラボーゼロ/ブレイド〉が抜刀する。

「……何の真似だ、〈アサシン〉?」

 怯えて後退る玲雄を庇うように立ちはだかると、ブラボーゼロが訝し気に問い掛ける。

「言った筈だ。今の俺はゼロナンバーでも殺し屋でもない、探偵だ。いくらコイツが生かす価値のない社会のゴミだとしても、彼女の前でだけは殺させない」

 肩越しに美優を指差すと、光彦は目を細めた。

「……〈ドールメーカー〉から話は聞いていたが、あのガイノイドが?」

「莉緒お嬢様の忘れ形見です。貴方にとってはある意味、孫娘同然の存在といえましょう」

 ほぅ、と興味深く美優を見据える光彦。気まずそうに視線を逸らして機械が剥き出しになった顔を隠す美優からクロガネに向き直る。

「あの有り様は、玲雄が?」

「はい。状況から見て、彼女が保管していた莉緒お嬢様の子宮を抉り出そうとした形跡も見られました」

 驚いたように瞠目した光彦は目を閉じて溜息をつき、首を左右に振った。

 その一挙一動に、玲雄はビクビクしている。

「……信じられんな。莉緒がそのようなガイノイドを遺したことも、玲雄が仕出かしたことも。いや、仕事にかまけて子供たちのことを碌に見ていなかった私の責任か……父親失格だな……」

 やがて目を開けた光彦は訊ねる。

「そのガイノイドは依頼人だと聞いた。どんな依頼だ?」

「……人間になりたい、と。それが彼女自身の依頼であり、莉緒お嬢様の望みでもあります」

「ほぅ、興味深いな」

「それでしたら、詳しくは本人に訊いてみてはいかがでしょう?」

「ふむ、そうしよう。いや、是非話をしてみたい」

 クロガネは美優の手を引いて共に光彦と対峙する。

 美優はコートの前を固く握りしめて俯いた。

「初めましてお嬢さん。私は獅子堂光彦、莉緒の父親だ。貴女の名前を教えて頂けないだろうか?」

 ビクリと、獅子堂家の当主に声を掛けられて戸惑うも「大丈夫」と頷くクロガネに背中を押され、顔を上げた。

「……ハジめまシて、私ハ安ドウ美ゆ。シシ堂リオの娘でス」

 ノイズ混じりで聞き取りにくい箇所はクロガネがフォローし、美優は光彦の目を見て懸命に自身の身の上を伝える。

 自分が造られた経緯、開発者で母親と呼び慕う莉緒から受け継いだものと夢、何故クロガネの元に身を寄せたのか、彼にどんな依頼をしたのか、全てを語った。

「……なるほど、莉緒の夢、か……」

 話を聞いた光彦は憂いを帯びた目を伏せた。

「はっ、ガイノイドの分際で人間になりたいだ? 機械風情が」

 玲雄の嘲笑を銃声が遮る。クロガネが放った銃弾は、玲雄の髪を掠めた。

「お前は黙っていろッ」

 沈黙する玲雄。

 つい反射的に発砲してしまったが、光彦の手前であることに気付いて我に返る。

「……失礼しました」

「いや構わない、むしろグッジョブだ」

 頭を下げると光彦が手で制して許した。クロガネからしてみれば、当主の眼前で銃を抜いた瞬間、身構えたゼロナンバーの二人に気が気でない。

「それで貴様は玲雄が攫ったこの子を助けるためにここまで来たのか?」

「いいえ、仕事で確認のために会いに来ただけです」

「ほぅ?」

「失礼します」光彦に断りを入れて、美優に向き直る。

 ようやく本来の目的にまで漕ぎ着けた。

「美優」

「はイ」

 呼び掛けると彼女は頷いて応じた。

「君は獅子堂莉緒によって生み出されたガイノイドであり、その所有権は獅子堂家にある。遺憾ながら獅子堂玲雄が『所有物の回収』と主張する以上、君から受けた依頼を中断せざるを得ない状況だ」

 美優は真顔でクロガネの話に耳を傾ける。

「しかしながら、俺に依頼をしてきたのは君自身の意思によるものだ。俺は依頼人である君に直接確認をしに来た。ご当主が現れた以上、意味がないのかもしれないけど、それを承知の上で確認させて貰う」

 クロガネは、美優の眼をまっすぐに見据える。

「安藤美優さん、依頼期間はあと二日ほどありますが、依頼を継続しますか? それとも、キャンセルしますか?」

 美優は俯いて視線を彷徨わせ、やがて顔を上げて応えた。

「――キャんセるしまス」

「……理由を訊いても?」

「こノ度はクろガネサんに多大なゴ迷惑をおカケしまシた。コレ以上、厄介にナルわけにハいきまセん」

 迷惑だなんて思っていない、そう言おうとしてやめた。他でもない依頼人が決めたことだ、これ以上の引き止めも詮索も無粋だろう。

「……解りました、キャンセルを受諾します」

「ゴめンナさイ……」

 美優も残念そうであることが救いだ。

「では、キャンセル料は私の方から出そう」

 おもむろに光彦がPIDを取り出す。

「確か依頼達成の報酬が三千万だったな。愚息の迷惑もあったから多少色を付けて、一億円を支払おう」

 多少で済ませられる金額ではないと思う。

 クロガネのPIDに着信音が鳴り、確認すると口座に一億円もの電子マネーが振り込まれてあった。さすが大富豪、支払いに躊躇いがない。

「……キャンセル料の振り込みを確認、美優の依頼を取り消します。ありがとうございました」


 この瞬間、安藤美優から受けた依頼が終わりを告げた。


 依頼というクロガネとの繋がりが途絶え、寂しそうに俯く美優だったが、

「……さて、ここからは個人的な勧誘活動と行こうか」

 突然の発言に驚き、顔を上げる。

「安藤美優さん、当探偵事務所は貴女の能力を高く評価しており、。今現在、探偵業に興味はございませんか?」

 美優はおろか、その場に居る全員が唖然としている。

「……どウシて?」

「美優のお母さんからの依頼は、まだ終わっていない」

 二つに破れ、テープで繋ぎ合わせた獅子堂莉緒の手紙を見せる。


『彼女は私の分身です。

 あとは任せました。

 大事に育ててください』


「俺は大切な女性ひとから大切なものを託された。それが最期の頼みなら尚のこと、断れない」

「……ァ」

 美優は母がどうしてクロガネに入れ込んでいたのか、ようやく理解した。

 彼は今も獅子堂莉緒美優の母親のことを大事に想い続け、安藤美優彼女の夢を守ろうとしている。

「だから、その、安月給でも良かったら雇わせてくれないか? 正直、来てくれると助かる」

 母の頼みだけでなく、自分を必要としていることがとても嬉しい。

「――おっと、良いタイミングだったかな」

 新たな闖入者の声に、全員が視線を向ける。

 現れたのは、クロガネや他のゼロナンバーと同じ型のスーツを着た美青年イケメンだ。

「……〈デルタゼロ/ドールメーカー〉か、ゼロナンバー四人が一堂に揃うとは壮観だな」

「出来れば俺を数に入れないでくれませんかね……」

 感慨深い光彦の発言に、控えめな訂正を入れるクロガネ。

「それで何用かな、〈ドールメーカー〉?」

「――はい、安藤美優の修理のため彼女を引き取りに。それと、を僕に一任して頂けないかお伺いに参りました」

 出嶋とは別個体の端末を操っているデルタゼロの発言に、光彦は目を細め、玲雄は息を呑む。

「前者はともかく、後者は具体的にどのような?」

「――犯した罪が巡り巡って返ってくる、因果応報という形でご子息を処分致しましょう。勿論、家名に泥を塗るような真似は致しません」

 デルタゼロの本性を知るゼロナンバーの三人は揃って顔をしかめるも、玲雄を擁護する者は誰一人として居ない。

「……解った、貴様に一任する」

「はぁッ!?」

 光彦の許可にデルタゼロが丁寧に一礼し、玲雄が抗議の声を上げた。

「どうしてッ!? 俺を見捨てるのか親父ッ!? 実の息子である俺をッ!?」

「見限るに値することを仕出かしておいて罪の意識も償う気もないのであれば、貴様はもう私の息子とは認めぬ。あの世で母と妹に謝ってこい」

「そんな……嫌だ、死にたくない……嫌だぁあああああああああああ――ァ……」

 絶叫する玲雄の首筋に、麻酔アンプルが装填された無針注射器を撃ち込んで意識を奪うと、デルタゼロは軽々と肩に担いだ。

「――それでは美優もご同行……の前に大事な話がありましたね、まずはそちらに決着を」

 デルタゼロに促された美優は周囲を見回す。

 ブラボーゼロとシエラゼロは部外者だからか、静かに事の成り行きを見守っている。

 獅子堂光彦を見ると、穏やかな苦笑が返ってきた。

「……私からは何も言うまい。身内として貴女の意思を尊重し、その答えを支持しよう」

 その発言は安藤美優を『一人の人間』として見なしたも同然な意味を含んでいた。

『獅子堂家が所有するガイノイド』という枷から外れて自由を得た美優は、改めてクロガネに向き合う。

 探偵助手のスカウト。

 安藤美優に初めて訪れた大きな選択肢。

 選ぶのは他でもない、自分自身だ。

「私ハ……」

 ノイズ混じりでも、美優は凛として己の意思を紡ぎ出す。

 彼女が選んだ答えは――




 ホテル『バベル』のヘリポートから飛び去って行くヘリコプターを見送ったクロガネは、しばらくその場に佇んでいた。

「……終わったな」

 東の空が明るくなってきた。夜明けも近い。

「――ああ、ご苦労様」

 デルタゼロが労いの言葉を掛けてくる。肩には眠ったままの玲雄を担いでいた。

「そいつをどうする?」

「――ここで処分する。このホテルの運命も道連れにしてね」

「最期まで贅沢な奴だな、墓標にしてはデカすぎるだろうに」

「――驕った人間は神の怒りを買い、天上に至る塔は脆くも崩れ落ちた」

 唐突にデルタゼロはそううそぶいた。

「……バベルの塔か」

 旧約聖書の『創世記』に登場する有名な塔だ。聖書に馴染みがなくとも、その名を知る人間は多いだろう。

「――その通り。厳密には創世記に『塔が崩れた』という記述はないけどね。元は一つの言語しかなかった人間たちに、神が異なる言語を与えた。その結果、意志疎通が出来なくなって天上に至る塔の建設は頓挫とんざし、人間たちは同じ言語を持つ者同士が集まって世界各地に散らばったとされる。数多くの『言語』と『国』と『自由』と『可能性』が生まれたわけだね」

「……何が言いたい?」

 意図が読めず訊ねると、デルタゼロは無邪気に笑った。

「――いや、神様のようなご当主の怒りを買って、この『バベル』とその玉座に居た人間の命運が尽き、一体の人形が自由と可能性を得たなんて出来過ぎだと思わないか?」

 言われてみれば、確かに状況が似ている。

「ただの偶然だろ」

「――そうかもね。だとしても、この結果を呼び寄せたのは間違いなく君だよ」

「仕事をしただけだ。そんな大袈裟なものじゃない」

「――たった一人で天下の獅子堂にカチ込んだのは、大袈裟どころか異常だよ。その戦果も充分異常以上だ」

 デルタゼロはクロガネの義手――左腕を見やる。

「――始まりは莉緒お嬢様。玲雄坊ちゃんが幾度も余計な介入をして最後には実の妹を、そして君を裏切った」

 

 ――三年前、獅子堂莉緒を攫った犯罪組織を手引きしたのは、獅子堂玲雄だった。


 当時の玲雄は妹に少なからずの劣等感を抱いており、自身が妹よりも優れていることを父親の光彦に認めさせようとしたのが動機らしい。

 玲雄が所有する化学工場で開発された〈サイクロプス〉のデータ収集も兼ねて密かに犯罪組織と接触し、莉緒を救出するゼロナンバーの指揮を執ったのだが、実戦経験も特殊部隊の指揮を執った経験が一度もないことが裏目に出た。

 結果として命令系統が機能せず、味方の救援が遅れに遅れ、試作段階だった〈サイクロプス〉は暴走し、当時のクロガネは左腕を失う瀕死の重傷を負った。そして救出された莉緒も持病が急変するという大惨事となった。

 後日、ゼロナンバーが犯罪組織の残党を掃討した際に、生存者から提供された情報から獅子堂玲雄のマッチポンプであることが明るみになった。

 結果、玲雄は無期限の謹慎処分が下され、所有する会社は軒並み倒産。政界や社交場に出ることも固く禁じられ、莉緒には二度と関与しないことを光彦から命じられた。もっとも、謹慎程度では全然懲りずに好き放題していたが。

「――極端な話、今でも君は坊ちゃんを殺したいくらいに恨んでいるだろ?」

「……そうだな」

 当時の記憶を振り返り、クロガネの中で鎮静化していた激情が鎌首をもたげる。

 名誉のために自作自演で実の妹を危険に晒し、救出に動いた全ての人間を騙した玲雄を到底許すことが出来なかった。

 獅子堂玲雄は部下を裏切り、家を裏切り、家族を裏切った。

 そして獅子堂莉緒は死んだ。

 死因は心臓移植手術の後遺症だったが、玲雄が殺したようなものである。

 三年経った今でも、怒りと無念と憎しみが薄らぐことはない。

「――代わりに始末するかい?」

「……いや」

 魅力的な提案を、クロガネは断る。

「今の俺は殺し屋じゃない。美優のためにも、少しでも誇れる探偵で在りたい」

「――そうかい。では、君の恨みも僕が引き受けよう」

 デルタゼロはきびすを返し、出口に向かう。

「――今回の件は、美優だけでなく君にとっても意味の大きいものだ。かつての雇い主とまた深く関わってしまったんだからね」

「お前が美優を送り付けたからだろう」

「――そうだね」

 その背中にクロガネは不満をぶつけるも、飄々ひょうひょうと受け止められた。

「――だけど言っただろう? 始まりは莉緒お嬢様だと。その娘が君の元にやって来た。例え君が名を変え、身分を変えたとしても、君が君である限り過去は変えられない。獅子堂家と築いてきた今までの関係をなかったことには出来ない」

 クロガネは黙って、ただその事実を受け止める。

「――手を汚さないのは立派な志だけど、いつまでも甘い考えで居たらまた大事なものを失うよ」

 その言葉は無情な現実であり、予言そのものだ。

「――それだけは心に留めておいてくれ」

 そう言い残し、デルタゼロは玲雄と共に去っていった。

「……覚悟なら出来てるよ」ぽつりと呟く。

 美優を守る覚悟も、そのために必要であれば何者の命も断つ覚悟もしている。

 現に、美優を無残な姿にさせた玲雄を本気で撃ち殺そうともした。超えようとした一線を寸前で踏み留められたのは、他ならぬ美優の存在があったからだ。

 だが今後も美優を狙う者は必ず現れる。それだけの価値が彼女にはあり、その存在と精神ココロを守り続けるには限界があるだろう。探偵として生きる道を捨て、封印した暗殺者の力を再び呼び醒ます時が必ず訪れる。

「……俺は今のままで居られるかな?」

 疲労困憊ひろうこんぱいのせいか、つい弱気な独り言をこぼすと、

『大丈夫ですよ』

「ッ!?」

 突然、懐から美優の声が聴こえたので驚いた。慌ててPIDを取り出す。

「……美優? どうして?」

『黙っていてごめんなさい。デルタゼロから突然通信回線が開いたもので』

「あンの野郎……いや、待て。てことは、さっきまでの会話は……」

『……はい、全部聴いていました。ヘリに搭乗している皆さんにも筒抜けです』

 申し訳なさそうな美優の声に、クロガネは天を仰いだ。謀ったな、デルタゼロ!

『それと私も居るわよ』

「海堂ッ!?」

 まさかの真奈の声に、さらに驚く。

『――今更驚くこともないだろ、僕はたくさん居るのだから』

「こ、の……ッ」

 続く出嶋=デルタゼロの声に、PIDを叩き付けたい衝動を必死に抑える。愉快そうに笑う狂人の顔が脳裏に浮かんだ。

『今回の件で関わった全員に、先程の会話を聞かされていたようですね』

 冷静な美優。

『お陰様で大体の状況は把握したわ。とりあえず、無事で本当によかった』

 安堵する真奈。

『――疲れているだろう? ドクター真奈に説明する手間が省けるよう、良かれと思ってね』

 確信犯の出嶋。地獄に堕ちろ。

『それで話を戻しますが、クロガネさんなら大丈夫です』

「……何を根拠に?」

 弱気な発言を聴かれてしまったことに恥じりつつ、クロガネは美優に訊ねる。

『クロガネさんは強いです』

「理由になってない」

 ボロボロに追い詰められた上に、最後の最後で美優に助けられたのだ。情けない。

『強いです。見捨てても良かったのに、私のことを助けてくれました』

「それは仕事だからで」

『自分の命より大事な仕事なんてそうありませんよ』

「……」

『もしも自信がないのなら、私を信じてください』

「美優を?」

『私はクロガネさんを信じています。だから、クロガネさんが強くて決して道をたがえないと信じる私を信じてください』

 美優を鏡として己を見ろ、ということだろうか。

 確かに自分を信じられないのなら、彼女を信じてみた方が建設的であるのかもしれない。

『えっ、ちょっと待って、何それ? 初耳なんだけど?』

 出嶋の悪戯か、美優が探偵助手になることを知らない真奈が慌てた様子で割って入るが、

『それよりも、たった今ホテルに警官隊が突入しました。すぐにその場から離脱することを推奨します』

「了解した、交信終了」

『ちょっ』

 やや強引に通信を断ち切る。真奈がしつこく追及してくると予想した故の判断だ。

 今頃、出嶋=デルタゼロは内心愉快そうに大爆笑していることだろう。いつか必ず、あの狂人とは決着をつけねばなるまい。

「……やれやれ、だ」

 後で拗ねてむくれた真奈に説明しなければならないなと考え、苦笑する。

 いささか面倒だが、不思議と悪くない。

 今の自分には帰る場所があり、迷いそうになれば美優が示してくれる。

 いつの間にか不安が消えていた。

 替わって胸に宿るのは心地よい高揚感だ。もう少しだけ、無茶が出来そうな気がする。

 冷たくも澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで吐き出すと、クロガネは疲れた身体に活を入れて屋上を後にした。

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