第40話 阿菖蒲と定廣


 阿梅のいなくなった白石で、おかねと阿菖蒲は手習いや行儀見習いに励んでいた。特におかねはもう嫁ぐことのできる年齢になる。喜佐と同様に、どこへ嫁いでも困らぬよう、矢内の方に厳しく指導されていた。

 しかし阿菖蒲はというと、一番歳が下だということもあり、多少のことは許されていた。

 それは阿菖蒲の性質にも起因するが、彼女の屈託のない笑みは矢内の方でさえも気を緩ませてしまうものだったのだ。

 そんなわけで、阿菖蒲は比較的よく白石城下や周辺の散策をし、大八の預けられた屋敷へとこっそり行くことすらあった。そんな折、阿菖蒲は喜佐と共に少納言喜多の墓に参ることになった。

 といっても白石城のすぐ近くではあるが。

 お供の者も少なく、ほとんど散歩のような気分で阿菖蒲は喜佐に連れられて森深くの墓前へとやってきた。

「私、こちらには、ほとんど来たことがありません」

 静かな森を見渡して言う阿菖蒲に、喜佐は「他の者も滅多なことではここにはこないわ」と教えた。

「でも、小十郎様の伯母上様のお墓なのでしょう?」

「だから、よ。喜多様は大殿様の乳母を務められた方。身内以外はそう参られるものではないわ」

「そうなのですね。光栄です。喜佐姫様、ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げる阿菖蒲に喜佐も何だかんだで甘い。

「いいのよ。私も一人でお参りするのは味気なかったし。阿梅やおかねだって、きたことがあるのよ」

「姉上達から喜多様のことは、たくさん話してもらいました。とても立派で素敵な方だって」

「そうよ! 喜多様の強く美しい生き方から、私達は学ぶべきなのよ!!」

 阿菖蒲は姉達から聞かされたことを、一からまた喜佐に聞かされることになってしまった。

 そうこうしているうちに森の奥深く、日が陰りだした。

「姫様、もうお戻りになりませんと」

 お供の者に言われて、喜佐はハッと墓前で今一度、手を合わせた。阿菖蒲もそれに倣い手を合わせる。

 そして阿菖蒲がふっと顔を上げた時、視界の端で何かが動いたような気がした。阿菖蒲は目をしばたたかせ、そちらをじぃと見つめた。

「どうしたの? 阿菖蒲」

「あ、その、あちらに誰かいたような」

「……………気のせいよ。ほら、もう行くわよ」

 喜佐はどこか急かすように阿菖蒲を帰り道の方向へ押しやった。阿菖蒲は内心で首を傾げつつ、喜佐に押されるままに帰路へと足を向けた。

 しかし好奇心の強い阿菖蒲だ。ちらりと後ろを振り返れば、先ほどは気が付かなかったが、墓の近くには庵のようなものがある。

(あそこに、誰か住んでいるのかしら?)

 阿菖蒲はそんなことを考えながら白石城へと帰ってきた。

 それから阿菖蒲はあの静かな森に住んでいる人が妙に気になって、ついに矢内の方へ再び多喜の墓参りを願い出た。

「あの場所に、何故?」

 不審そうな矢内の方の視線に、阿菖蒲はなんとなくあの庵のことは口にできなかった。

「喜佐姫様に連れていってもらったのですが、とても心落ち着く場所で。もう一度、お参りしたいと思っていたのです」

 そうお願いする阿菖蒲に矢内の方はしばらく考えている様子であったが、けっきょくは頷いてくれた。

「良いでしょう。ただし、供の者に従うのですよ」

「ありがとうございます!」

 満面の笑みでお礼を言う阿菖蒲を、矢内の方は悟られぬよう注意深く観察した。

(まさか、とは思いますが)

 あの場所は白石の地でも少々込み入った事情があるところなのだが。阿菖蒲がそれを知るはずがない。

(しかし、供をする者は選ばねばなりませんね)

 矢内の方は阿菖蒲の様子に秘かに警戒した。

 そんなことは露知らず、阿菖蒲はお墓へと参る日はうきうきとした気分で出かけた。

 しかし、である。

「阿菖蒲様、そちらに行ってはいけません」

 矢内の方が供としてつけた女性が、やたらにあの庵の近くを避けたがるのである。

(どういうことかしら?)

 まるで何かを隠している、と言わんばかりの様子に訝しく思ったものの、阿菖蒲はお墓参りをすませると潔く帰路についた。

(知られては都合の悪いことでもあるのかしら)

 こんな静かな森に、それも片倉家にとっては大切であろう喜多の墓の近くに、いったい何があるというのだろう。

 そんな考え事をしていたせいか、阿菖蒲は木の根に躓き盛大に転んでしまった。

「阿菖蒲様!」

 慌てて駆け寄る供の者に阿菖蒲は「大丈夫」とは言ったものの、困ってしまった。

「でも履き物が」

 転んだ拍子に草履ぞうりの鼻緒が切れてしまったのだ。これには供の者も同じように困った顔をした。

「裸足でいくわけにもまいりませんし、直さねばなりませんね」

「そうね。何か手頃な布でも持っていたかしら」

 二人してごそごそと懐を探っていたら。

「どうか、されましたか」

 小さいが確かに声をかけられて、阿菖蒲は後ろを振り返った。そこには阿菖蒲の姉、阿梅くらいだと思われる青年が一人いた。

 青年の姿に供の女性が上ずった声を上げる。

「何の心配もありません。どうぞ、お気になさらず」

 阿菖蒲はそんな供と青年とを交互に見やり、それからにこりと青年に笑って首を振った。

「大丈夫です。鼻緒が切れただけですので。今、手拭いで直そうかと」

 すると青年は鼻緒の切れた草履をひょいと拾い、阿菖蒲に手を差し出した。

「?」

 きょとんとしてしまった阿菖蒲に彼は「手拭いを」と言う。

 おずおずと阿菖蒲が手拭いを渡せば青年は器用にすっすっと鼻緒を直してくれた。

「こういうのは、得意なもので」

「そのようですね。私達が直すより、ずっと丈夫そうです。ありがとうございます」

 素直に感謝する阿菖蒲に彼は目を細めると、それからまた手を差し出した。

「立てますか?」

 ついその手に手を重ねてしまった阿菖蒲だったが、供の視線に少しだけ後ろめたい気持ちになった。

「あの、自分で」

「危ないですから。ほら、つかまって」

 ぐいと力強く手を引かれ、片足で立った阿菖蒲は促されるままにしゃがんだ彼の肩につかまる。青年は阿菖蒲がちゃんと自分につかまるのを待ってから草履を阿菖蒲の足下へと置いた。

 草履を履いた阿菖蒲はもう一度、青年にお礼を言った。

「あの、ありがとうございました」

「いや、お役に立ててよかった」

 笑う青年の話を遮るように供の女性が阿菖蒲に言う。

「もう城におもどりになりましょう」

「そうですね」

 阿菖蒲はそれに頷いて青年の傍から離れた。しかし青年がまた阿菖蒲に声をかけるのだ。

「貴方は――――――真田の姫君か」

 阿菖蒲が驚くと同時に供の者の厳しい視線が阿菖蒲に突き刺さった。だから阿菖蒲は何も言えずに青年を見つめるしかない。

「すまない、不躾だった。私の名は金兵衛。姓は――――田村を改め今は片倉を名乗らせてもらっている」

 供の者が息を飲んだ。その様子から、彼が口にしたことはひどく重要なことなのだと阿菖蒲は察した。

 だから阿菖蒲は名乗った。

「私は真田左衛門佐信繁が娘、阿菖蒲といいます」

 金兵衛と名乗った青年が目を見張った。

 阿菖蒲はそんな青年を見て、ぺこりと頭を下げた。

「先ほどは本当にありがとうございました。ご縁がありましたら、またお会いいたしましょう」

 そして面を上げると、阿菖蒲はぽかんとしている供の者に「さ、行きましょう」と声をかけて、すたすたと帰り道を歩き出した。

「お、阿菖蒲様!」

 慌てて後を追う供の者と、まるでただの散歩から帰るかのような阿菖蒲の後ろ姿を、金兵衛は眩しいものでも見るように眺めていたのだった。











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