【日常ファンタジー】水筒男と猫舌の後輩

ノベルアップ+にも同じ作品を掲載しています。

https://novelup.plus/story/475452322

―――――――


 ある日、先輩の頭が水筒になった。

 正確には水筒の注ぎ口で、ふたはない。人の頭部があるべき場所に、成人男性の頭ほども大きさがあるプラスチック製の注ぎ口がちょこんと乗っかっている。


 先輩いわく、昨日会社から帰るときに駅の近くの歩道橋を渡っていたら、中途半端に空いていたカバンから水筒が滑り出てしまい、慌てて手を伸ばしたらそのままバランスを崩して転び、水筒でしたたか頭を打って、気がついたらこんなことになっていたのだという。


「お前も階段には気をつけなよ?」


 冗談めかして先輩は言う。

 どこから声を出しているのかよくわからない。

 食事はどうしているのかと聞いたら、先輩は注ぎ口からさらさらと粉コーヒーを入れてみせた。先輩が動くたびに、とぷんとぷんと音がする。その体の中にいったい何リットルのコーヒーが入っているのだろう。


 頭部が水筒になっても仕事がなくなるわけではないので、俺と先輩はいつものように取引先へ向かう。

 だけど45度のお辞儀をしたとき、先輩の中身がこぼれてしまった。

 おかげで取引先の床がすっかりコーヒーびたしだ。


 帰社の途中、先輩はだいぶへこんでいる様子だった。

「きっとそのうち俺は空っぽの人間になってしまうんだ」

 普段はお茶目な先輩も、中身が減るとしょんぼりしてしまうようだ。

 いつも先輩にお世話になっている身としては、励まさずにはいられない。

「そうだ。先輩いつもコーヒーじゃないですか。気分を変えてたまには違う中身にするのはどうです?」


 翌日、先輩の中身はハーブティになった。

 女子社員からは「香りがいい」「リラックスできる」と好評で、本人も「なんか体にいい気がする」などとのんきなことを言っている。


 その日の帰り、俺は先輩が転んだという歩道橋に立ち寄った。ここに来れば先輩が元に戻るヒントがあるんじゃないかと思ったからだ。

 歩道橋があるのは駅の近くで、路上にはゴミが多い。階段を昇ろうとしたとき、濡れたビニール袋をうっかり踏んでしまい、俺は足を滑らせた。

 転ぶかと思ったが、そうはならなかった。


「おおっと」


 うしろにいた誰かが俺を支えてくれたのだ。

 だが、相手は反動で倒れてしまった。


「うわっ、すみません!」


 慌てて振り返ると、先輩がいた。

 注ぎ口からどくどくと中身がこぼれ、あたり一帯にハーブのいい香りが漂っている。


「先輩!?」


 俺は青ざめた。

 少し中身が減っただけであんなにしょぼくれていたのだ。もしすっかり空っぽになってしまったら、先輩はどうなってしまうのだろう。


「だから階段には気をつけなよって言っただろ」


 俺の心配をよそに、先輩はいつもの愛嬌のある顔で俺を見ていた。

 そうか、中身がなくなると人間に戻るのか。

 安堵のため息がこぼれる。


 思い出したように、先輩は「腹減ったなあ」と呟いた。それもそのはずだ。頭が水筒になっているあいだ、彼はほとんど何も食べていなかったのだから。


「いいですよ。ラーメンくらいならおごります」

「おっ、どうしたの。珍しいね」

「嬉しいことがあったので」


 先輩が元に戻れたのだから、今日はお祝いだ。


「でもお前、猫舌は大丈夫なの?」

「氷水を入れて食べるので平気です」


 そう言って俺はぺろりと舌を出した。

 一か月前、車にひかれそうになっていた猫を助けてからというもの、気がついたら頭が猫になっていた。それ以来、熱い物はすっかり苦手になってしまった。

 だけど、今日くらいいいじゃないか。


 あたりを見回せば、いろんな頭の人が歩いている。

 花束、鳩時計、すいか、広辞苑、ひつじ、炊飯器、サッカーボール。みんな自分の頭部がどうなっているかなど気にせずに生きている。

 俺たちもその中へ溶け込み、都会の夜の街を悠然と歩いていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る