【百合・R15・大人の恋愛・微エロ】蝶の標本

身体から始まった関係だった。

でも、今は芳乃よしのさんのことが好きだ。

だから今夜、私は彼女を美しい標本にする。


★ホラーではありません。一途な純愛ものです。

★行為どころかキスすらしていませんが、念のため【R15】とします。


ノベルアップ+にも同じ作品を掲載しています。

https://novelup.plus/story/850212124

―――――――


 情事の後はいつも不安になる。

 芳乃よしのさんは私との行為に満足してくれただろうか、と。


 どろりとした不安が胸に巣くい始めたのは、二人で初めてホテルに入ったあの日からだ。

 そのとき、私は慣れない場所にひどく緊張していた。

 部屋の入口にある無機質な自動精算機も、無駄に高級感あふれる柄物の壁紙も、端正に整えられたダブルベッドも、その脇にある小さな販売機も、恐ろしく大きなテレビ画面も、どれも見慣れないものばかりだった。


 それなのに芳乃さんは手早く支払いを済ませ、空調を確認し、照明を少し落とし、それからお風呂のお湯を入れにいった。あまりにも無駄がなく手馴れていた。

 私の視線に気付いた彼女は、悪びれもせず微笑んだ。


「ラブホは初めて?」

「……は、はい」


 芳乃さんは、ずいぶん慣れているんですね。

 そんな言葉を慌てて呑み込む。

 しかし、察しの良い彼女は私の考えていることなどお見通しのようだった。


「ここね、何度か男と来たことがあるの。でも、今思うとつまらなかったわ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸に不安の種がこぼれ落ちた。

 彼女はまるで遠い過去を思い出しているかのように、そっと視線を伏せている。永遠に残しておきたくなるような美しさがあった。


 私は芳乃さんが好きだ。

 たとえ最初は身体から始まった関係だとしても。女の私でもいいと言ってくれたのは芳乃さんだけだった。気がつけばいつのまにか本気になっていた。


 彼女から「つまらない」と言われるところを想像するだけで指先が冷たくなるのを感じた。嫌だ、それだけは駄目だ。芳乃さんに飽きられたくない。彼女を失望させたくない。絶対に別れたくない。


 それなのに、彼女はまるで蝶みたいだ。

 ひとたび風向きが変われば、ひらひらと飛び去ってしまいそうだった。

 たまらなくなり、とうとう私は尋ねた。


「どうすれば芳乃さんとずっと一緒にいられますか」

 彼女は寂しそうに笑った。

「私を『シノ』って呼ばないこと」

「シノ?」


 あだ名みたいなものだろうか、と首を傾げる。

 芳乃さんはダブルベッドの上に起き上がり、少し寒いと言って布団を身体に巻いた。そうしていると、彼女は羽化寸前の蝶のようだった。


「そう呼ばれてたのよ、前の男からね」

芳乃よしのだからシノってことですか?」

「ずっとそうだと思ってたけど、違ったの。4乃シノ。つまり4番目の浮気相手ということ。は手帳にも数字しか書かなかったから奥さんも気付くのが遅れたみたい。そうよ、彼は結婚してたの」


 馬鹿ね、と彼女は呟いた。

 でもそれは男に対して言ったのか、男の奥さんに言ったのか、それとも彼女自身のことを言ったのか、わからなかった。

 あるいは、不安そうにしている私をなだめるために言ってくれたのかもしれない。


「数字って、1とか2とか?」

「そうよ。1美ヒトミ2葉フタバ3鳥ミドリ……という具合にね。本名をもじったり、そうじゃない場合はもっともらしい理屈をつけて呼んでたみたい」


 その数字の羅列の中に、かつては芳乃さんも含まれていた。


 ――許せない。

 蝶の標本でも作るかのように、彼女に番号を割り振って。

 標本箱のようなホテルの一室に閉じ込めて。

 虫ピンで刺すかのように、ベッドの上に押し倒して。

 この美しい身体を、隅から隅までもてあそんだのか。


 いつもは凛としている芳乃さんが、私の腕の中では嵐に怯える蝶のように震える理由がわかった。狭い箱の中から見上げる世界は、彼女にとってさぞ退屈でつまらないものだったことだろう。


 同じ標本でも、私ならもっと大切にするのに。

 一匹の蝶をどこまでも深く愛するのに。

 誰にも汚されたことのない雪原のような白い肌に赤い花を咲かせて、私の腕にしがみつく手を優しく握ってあげて。私なら、この指で彼女を可愛らしく鳴かせることだって、夜の闇の中で美しく羽ばたかせることだってできる。


 私の方が、よほど深く彼女を愛してあげられる。

 花の陰で逢瀬をする蝶のように、私は布団に潜り込んで彼女と肌を重ねた。


「ふふっ。なあに、嫉妬したの?」

「そうです。芳乃さんは私のですから」


 芳乃さんの身体を抱きしめると、濃厚な花の香りがした。

 きっと彼女から流れ出る蜜の匂いだ。


 これから私は標本を作る。

 夜の温度も、花の香りも、肌の温もりもすべて閉じ込めて、この世界で一番美しい、とびきりの標本を。

 ゆっくり指先をすべらせれば、静まり返った部屋の中で芳乃さんの肩が儚げに震えた。

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