第26話 痛みの連鎖

 武田は、タケルの横を足早に通り過ぎた。

 どうか見逃してくれと祈りつつも、絶対に腕を掴まれて怒鳴られるのだと思っていた。そして次は殴られるのだと。

 だが想像に反して、無事に通りすぎることができた。無論それは喜ばしいことで、決して絡まれたかったわけではないのだが、タケルが何もしなかったことを意外に思ってしまった。逆に言えば、それだけいつも、些細な事で絡まれてきたということなのだが。

 武田はちらりと振り返る。もしも、タケルがついてきていたら、走って逃げなければならない。


 いない。

 武田はホッと吐息する。そして後方をよく見てみると、タケルはガタイの良いいかにも腕っ節の強そうな男に肩をこづかれて、何か因縁を付けられているではないか。しかもペコペコと頭を下げている。


 武田の心臓がバクバクと脈打ち始めた。

 いつも冷たい目で自分を見下し、ふんぞり返って嫌がらせをする、あのタケルが弱気な態度で男から後退っているのだ。

 武田は一気に興奮していた。アイツのこんな姿を見れるなんて、と。


――やれ! もっと、やってやれ!


 心の中で、そのでかい男を応援した。もともと家族が待っているなんて嘘っぱちだ。用事なんて何もない。だから、この後タケルがどうなるのか見てから家に帰るのもいいかもしれない。いや見るべきだ、このまま帰ってたまるかと武田はニヤリと笑った。

 背中をバンと叩かれ、無理やり肩を組まされて歩いて行くタケルの後を、そっとついていくのだった。




 遠く前方で繰り広げられるその光景に、武田は驚いた。いや、彼らの後を追ったことを後悔し始めていた。恐ろしくなってしまったのだ。

 つい先程、男に連れられていくタケルの姿に、脳が沸騰するような高揚を感じたのに、今は重苦しく吐き気を催している。

 その男はタケルを薄暗い河川敷に連れ出し、私鉄の鉄橋下までくると容赦無く苛烈な暴力を振るいはじめたのだ。


 それはいきなりの肘打ちから始まった。

 タケルは防戦一方と言うよりも、やられ放題だった。抵抗しないのか、したくてもできないのか、武田には解らない。とにかく殴られっぱなしだった。


 あまり近づきすぎると見つかってしまうため、遠く離れた茂みの影から武田は様子を伺っていた。

 強烈な蹴りで吹っ飛んだタケルの上に男は馬乗りになって、顔を何度も殴っている。ガタガタと上方を走る電車からの灯りが、彼らのシルエットをしばし浮かび上がらせる。それは恐ろしい影絵だった。

 武田の場所からでは、何を言っているのかわからないが、時折、罵声や悲鳴が響いてきた。

 電車が走り去り、また暗くなった。


 武田は震えていた。

 なにもそこまでしなくても……そんな思いが湧いてくる。

 確かに、ついさっきまではタケルなんかボコボコにされればいいと思っていた。自分が殴られた分、タケルも男に殴られればいいと。

 だが、こんな苛烈なものは望みはしなかったし、想像もしていなかったのだ。

 それに、タケルなら抵抗することも、やり返すこともできるはずだと思うのに、全くそれをしないのが不思議でならなかった。


――なんだよ……なんなんだよ! やり返せよ。お前はいつも意味なく僕を殴ってただろ! 人を殴るのも喧嘩するのも平気なんだろ! そいつが怖いのかよ! 何にもできないのかよ!


 少し腹が立ってきた。

 自分がタケルから嫌がらせをされていたのは、彼の憂さ晴らしの為だったのだと、気づいてしまったのだ。

 ふと、タケルが時々頬を腫れさせていたことを思い出した。きっとこれが原因だったのだろう。てっきり喧嘩ばかりしているのだと思っていたのだが。

 しかし、これはもう喧嘩とは呼べない。一方的に暴力を振るわれているだけなのだから。


――やり返せよ、神崎! お前はいじめる側のはずだろ! お前なんかがいじめらる側だなんて、認めないからな! 僕は絶対認めないからな! ほら、殴り返せよ! 負けるなよ!


 男は立ち上がり、タケルの腹を踏みつけた。

 タケルの体がくの字に曲がる。その髪を掴んで引きずり起し、顔面に膝蹴りを入れた。

 武田は小さく悲鳴を上げ、手で口を覆った。自分が蹴られたような錯覚に陥っていた。鼻がジンジンと痺れて、思わず尻を付いてしまう。

 蹴りをくらったタケルは、背中から倒れ落ちた。男はその腕を掴み、手首の辺りをまさぐっていた。拒むような動きをするタケルに再び拳を振るい、何かを強引に奪い取った。

 鉄橋を渡る電車のあかりに、それはキラリと光った。


――時計? あの男、その時計が欲しいだけでこんなに殴ったのか?


 信じられない思いで、武田は目を凝らした。

 タケルが手を伸ばし、何か言っている。多分返してくれと言っているのだろう。男はその手を蹴り飛ばすと、時計のようなものを川に向かって投げたのだった。

 それは一瞬光の線を描き、川岸の草むらの中に落ちていった。

 武田は無意識のうちに舌打ちをしていた。胸糞悪くてたまらなかった。


 タケルが、フラフラと立ち上がろうとしている。が、すぐに膝をついた。その顎にまた男の膝が入る。

 その時、犬を連れた自転車の男が通りかかった。

 大きなゴールデンレトリーバーを連れた男は、二人の異様な様子に気付いたようで速度を緩めた。怪訝な顔をしていた。

 途端にタケルを殴っていた男は、そそくさと立ち去ってしまった。自転車の男が、「おい!」と声をかけたが、振り向きもしなかった。


 男は自転車を降りて、タケルを助け起こした。

 武田はホッと息を吐いた。あれ以上暴行を加えられたら、もしかしたらタケルは……と不安になっていたのだ。

 男は電話を取り出した。警察を呼ぼうとしているのかもしれない。だが、タケルがそれを懸命に止めている。大丈夫だと言うように立ち上がって、しきりに首や手を横に振っているのだ。


 武田にはなぜ止めるのか理解できなかった。これはもう傷害事件だと思うのだ。自転車の男もきっと武田と同じなのだろう、しきりに電話を指し示して何か言っている。しばらく二人は何か話していたが、男は諦めたようにまた自転車に乗って行ってしまった。

 タケルは、その男の後ろ姿に頭を下げていた。そして、ふらふらと草むらに向かって行った。投げ捨てられたものを、探すつもりなのだろう。

 武田は足が動かなかった。いや、彼がここを立ち去るまで、全てを見届けなくてないけないような気がしていた。


 タケルは草むらに頭を突っ込むようにして、いつまでも探し続けていた。よろけながら草をかき分け懸命に探し続ける。だがなかなか見つからないようだった。ようやく草むらから出てきたその手には何も無かった。

 諦めたのか、タケルはゆっくりと歩き始めた。肩を落として、武田が隠れている方に歩いてくる。


 電車がガタンゴトンと大きな音をたてて走っていく。

 一瞬、横顔に明かりが差した。

 武田は息を飲んだ。

 別人のように顔が腫れ上がり、傷だらけで泥にまみれていた。そして足を引きずりながら、ゆっくり歩いてくるのだ。

 電車が去り、その姿はまた暗い影に覆われた。

 タケルは武田に全く気付くことなく通り過ぎていった。その後姿を、武田はじっと見送るのだった。



 その後、電車が何本も通過してゆき誰もいなくなった河川敷で、武田はうつむいて拳を握っていた。

 自分は決してタケルに同情なんかしていない、と心の中で繰り返す。ただ、あの男のあまりの非道に腹がたっているだけなんだと。力のある者が、ない者を虐げる。そんなことがまかり通ることに、嫌悪を感じているのだと。

 武田はぎゅっと唇を結び、ゆっくりと草むらに向かっていった。

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ナイトメア・プレデター ~悪夢を喰うもの、それを狩るもの~ 外宮あくと @act-tomiya

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