#4

 象の消滅とともに動く人形はいなくなった。小寿はふうと一息つくと、グラディーヴァを杖に戻し、ランタンで周りを照らす。しかし夢世界は未だに消える気配はなく、確実に存在し続けている。


「そんな、まだ、終わらない!?」


「小寿、反応はまだ続いている。それも未だに接敵している状態だ。」


「接敵?もしかして……この足元全体が悪夢?」


 小寿はその場にしゃがむと、ランタンを低く構え、地面を照らし目を凝らす。それは巨大な亀の甲羅のようであった。つまりこの図書館は泳ぐ亀の甲羅の上に築かれているのだ。


「この図書館を動かしていたのは巨大な亀だったんですね。亀の上に象がいて、その上にこの夢世界の全てである図書館がある。ふふふ、地球平面説のようで面白い。」


 小寿は杖で甲羅を叩くがビクともしない。これは外に出て甲羅以外の部分を直接叩く必要があるようだ。壁際まで移動すると小寿は壁を破壊する。外に出ると眼下に海が見える。彼女はグラディーヴァを鎌に変形させると、亀の左腕を切り落とす。亀は泳ぐのを止め、図書館は停止する。


「今度こそこれが悪夢ですね。」


 悪夢とは本来的な意味での悪夢ではない。夢の主に敵対し、侵入者に対して敵意を抱くものを便宜的にそう呼んでいるのである。それは必ずしも夢の主の悪夢を象徴しているわけではない。


 小寿は水に飛び込むと亀の正面に出る。亀は蛇の死体を羽衣のように纏っている。亀はじっとこちらを見ている。まるで死を覚悟しているようだ。小寿はせめて痛みを与えぬように槍を構え、亀を刺し貫く。


 鴻巣は持っていた本の背が崩れ、ページが宙に浮くのを見ている。不思議が光景が眼前に見え、これは夢だと思う。ページは泡のように消えていく。表紙には蛇、亀、象、その上に図書館が乗っている不思議な絵が描かれている。登場人物の少女は慈悲の心を以って亀を屠った。繊細で心優しい少女。その活躍を読んでいると、何故だか友人の山入端小寿を思い出した。


 彼女は小寿のことが好きだった。ふわふわとしていて浮世離れしているが、その実、譲れないものがあるという確固たる意思を湛えたあの丸い瞳に魅了されていた。あの美しい瞳。心を洗うような優しい声色。それに本の趣味も近くて、親近感も持っていた。あの子のような友人ができて良かったなと思っている。


 本棚や椅子や机が水しぶきとなって弾ける。夢が覚めるのだな、となんとなくわかる。楽しい読書だった。仲の良い友人の活躍が見れたようで嬉しかった。


* * *


「おはよう、鴻巣さん。」


 目を開けるとそこには小寿がいた。河川敷の斜面に横になっている、いつの間にか寝てしまったらしい。上半身を起こすと彼女に挨拶する。


「おはよ、小寿ちゃん。なんか寝ちゃってたみたい。本がいっぱいあったいい夢見たなぁ。本の内容もね、小寿ちゃんそっくりな子が活躍する活劇。楽しかったなぁ。」


「ふふふ、いい夢だったようで良かった。そろそろ帰りましょうか。」


 あまり長い時間は寝ていなかったらしい、時計を見ると下校の時刻から一時間ほどだから、歩いてジェラートを食べた時間を差し引けば恐らく30分も眠っていない。鴻巣はお尻に付いた雑草を払うと小寿に手を差し伸ばし、立ち上がらせる。


「今日はちょっと眠いのかもな~、さっさと帰って寝ようかな。」


「はい、それがいいです。私も今日は疲れちゃったので家でのんびりする。」


 小寿は鴻巣が無事で心の底からホッとしている。夢世界では彼女を発見できなかったので、ずっと心配していたが、何事もないようで安心した。もしあの人形に襲われていたらと思うとゾッとする。小寿はそういった心の動揺を察せられぬよう努めて振る舞うのだった。


 鴻巣はそんな小寿の様子に気付いていたが、軽く微笑むと何も言及もせず歩き始める。あの夢で読んだ本が実は本当で、実際に図書館に閉じ込められていた自分を小寿が助けてくれたとしても、それはそれで良いなと思うのだった。


* * *


 家に帰ると小寿は疲れを感じ、部屋着に着替えるとすぐにベッドに倒れ込んだ。コンクリート打ちっ放しの12畳ほどの広々としたワンルーム。小ぶりな本棚にぎゅうぎゅうの本、その横にはMacがとデスクライトだけのシンプルなデスクが置いてある。部屋の中央には木製テーブルに二脚のウォルナットのセブンチェア並んでいる。壁沿いには制服やいくつかの私服が掛けられたハンガーラック、木目が暖かいウォターサーバー。部屋の隅には水槽がありベタが3匹泳いでいる。


 彼女の部屋は、年頃の女子高校生にしてはシックだ。それもそのはずで、彼女の住む部屋の家具はこの部屋を与えてくれたパトロンが選んだものだ。この部屋で彼女が選んだものといえば、本棚の本とベッドに並んだぬいぐるみとカラフルなクッションくらいのものである。


「ノルベルト。」


「なんだ、小寿?」


「疲れました。ご飯作って。」


「ケケケ、そんな機能は備わっていない。自分でなんとかするんだな。」


「そうですよね。ううう、面倒。」


 小寿はぬいぐるみを抱くとうつ伏せのまま目を閉じる。体がじんわりと温まり、ベッドにゆっくりと埋まるような感覚に身を任せると、そのまま寝入ってしまう。


* * *


「小寿、どうしたの?」


「あ、良明、なんでもない。鳥が飛んでいただけ。」


 アンシンメトリーにカットされた黒い真っ直ぐな髪の毛の少年の名は知念良明。小寿の幼馴染で、一緒に東京に出て来た高校生だ。彼は普通科の授業を受ける傍ら、ピアノで音楽大学に行く為に練習を続けていた。


「良明、もう一曲弾いて。」


「じゃあそうだな、小寿の好きなMichael Nymanマイケル・ナイマンの『楽しみをこいねがう心』を弾こうか。」


 良明の6畳一間の小さな部屋には姉からのお下がりである象牙の鍵盤のアップライトピアノが一台置かれている。ピアノの他には布団と小さな机が置かれているのみの質素な部屋。彼は両手を鍵盤に添えると、一呼吸を置いて奏で始める。


 小寿は彼のピアノを聴くのが昔から好きだった。繊細で神経質な彼は、傷つきやすく、人との付き合いをあまりしたがらなかったが、そのピアノはその押し殺した感情が器から流れ出るように叙情的な響きを鳴らすのだった。


 良明もまたそんな小寿の前では心を開き、心の底から安心して言葉を交わすことができた。彼女の少し浮世離れした態度や、おおらかな心根を愛していた。彼は小寿に恋慕の感情も抱いていたが、それは秘して明かさなかった。


「いつ聴いてもいい曲。映画は、まだ観てないのだけれど。」


「いい映画だよ。俺は好きだ。小寿もきっと気にいると思うんだけれどな。」


「うん、時間があるときに観てみる。」


「それは観ないやつだ。時間っていうのは作るものだよ。音楽も俺が弾くものばかりで、もっと自分で好きなものを探せばいいのに。勿体ないよ。」


「私は良明の弾く曲が好きだよ。」


「それは、ズルいな。」


 良明は顔を赤くして目を逸らすと、照れ隠しのように再びピアノを弾く。


* * *


 目が醒めると外は暗く、水槽の明かりだけが部屋を照らしていた。スマートフォンを確認すると21時、薄く涙の浮かぶ目を擦って猫のように伸びをする。


「ちょっと眠ってしまった。いけないいけない。」


 小寿はバスルームに向かう。シャワーを浴びながら先ほどの夢を思い出している。大好きだった良明。悲しくて泣きそうな時はいつもお気に入りの曲を弾いてくれた。彼のことを思い出すと、少し目が潤んでしまう。湯船に入って目を閉じる。大丈夫泣いていない。


 お風呂を済ますと紋田に選んでもらった化粧品を使った。小寿は両手で顔に染み込ませるようにする、この時間がのんびりとしていて好きだ。髪の毛を乾かすと、ウォターサーバーでお湯と水を入れて白湯にして飲む。


「ノルベルト。」


「なんだ、小寿。この時間から夕飯は太るぞ。」


「それはもういい、今日は食べない。それより話し相手になって。」


「……。ケケ、いいだろう。」


「私がグラディーヴァを使えるようになった時のこと。思い出してた。」


「話すといい。それで心が安らぐならば。」

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