第49話 野可勢の笛⑥ 🌸諏訪高島城へ到着




 

 9月12日申の刻。

 3人の虚無僧は薄群青の諏訪湖に柑子こうじ色の夕日が沈む諏訪高島城に到着した。


「ついに参りましたな、重ねがさね所縁の深い諏訪の地に」


 重長が呟くと、幽清を巡る鍔迫り合いなどなかったかのように秀雄が応える。


「小十郎さまの遠いご先祖の地、まさに神宿る諏訪でございますな」


 幽清を真ん中にした3人は深編笠を脱ぎ、湖上に沈みゆく荘厳な夕日を眺めた。


「この湖の底には武田信玄公のご遺骸が眠っているとか」

「あるいは、伝説の釣り鐘が沈んでいるとも聞きます」


「お父上の諏訪頼重さまを誅殺ちゅうさつした敵でありながら、同時にひと粒だねの勝頼さまの父上でもあられる信玄公との愛憎関係に疲れた諏訪姫さまが、病んだ心身を故郷の諏訪にもどされ、のち、自ら身を投じられたのもまた、この湖と聞き及んでおります」「いずれにしても、何とも神秘的な湖ではありまするな」


 昔語り好きな大人ふたりの話を聞くともなく聞きながら、少年の幽清は、薄縹うすはなだから杜若色、瑠璃紺色へと、刻一刻と変化していく諏訪湖の水面を、感慨深げに見詰めていた。


 

 一刻後。

 3人のすがたは松平上総介忠輝が幽閉されている高島城南ノ丸附近にあった。


 折しも7年目に一度の御柱祭年とあって、春先の盛大な本祭りの対に位置づけられる小宮(村落ごとの神社)の秋祭りの笛太鼓も、遠く近くに聴こえていた。


 狩猟を守る出雲系の神氏(片倉辺命)が司る上社は南西、農耕を守る天皇系の金刺氏が司る下社は北西の方角に当たるが、薄闇に閉ざされたいまはなにも見えない。


 湖上に大きくせり出した高島城は、そのすがたから「浮城」と呼ばれ、


 ――諏訪の殿さま

   良い城 持ちゃる

   うしろ松山 前は海


 俗謡に謳われるほど、諏訪湖、上川や宮川などの水の守りに囲まれていた。


 本丸の高台から南方へ下った低地にもうけられた南ノ丸は、かつては泥濘な湿地だったところで、薬草栽培のための御茶園が置かれていたが、御公儀から松平上総介忠輝預かりの命がくだったとき、きゅうきょ、預かり屋敷が建築された。


 言うまでもなく、重大な罪人を預かる高島藩の監視はきびしかった。


 本丸に通じる唯一の橋の左右に設けられた改所あらためじょでは、二六時中、藩の番人が見張っており、忠輝本人はもとより、伊勢朝熊、飛騨高山と付き従ってきた家臣の外出も許されなかった。日用品の買い出しは藩の役人が代行し、やむを得ぬ場合にも必ず役人が附き添った。


 当初は44人だった家臣が年ごとに少しずつ増えていったのは、ひとたび囚われ屋敷に奉公したが最後、御役御免になるまでは親の死に目にも会えぬ決まりの幽閉生活で、互いに満たされぬ思いを埋めるようにして夫婦になり、子どもをもうける者も出て来たからだった。


 片倉家の忍から事前に詳しい情報を得ていた重長は、とっぷり日が暮れた諏訪湖畔の、大人の背丈ほどもある枯れ葦の原に身を潜めると、襟を正す気持ちで幽清に声をかけた。


「さあ、お父上への思いの丈を込め、お心いっぱいに篠笛をお吹きくださいませ」


 無言で頷いた幽清は、静かに笛を唇に当てると、澄んだ音色を滑り出させた。


 ――ピューラリー、ララリーラ、ラリ―ラリーラ。


 何者が潜むか知れぬ闇の湖畔を、哀愁を帯びた音が小波のように伝わって行く。


 かねてより打ち合わせの演目は、生まれついて別離の運命にある父と娘の哀憐を謳った謡曲『景清』だった。


 いまは昔となった源平合戦で、源氏の武将・美尾屋十郎の兜のしころを素手で引きちぎった武勇譚で名を成したものの、敗戦後、日向国に流された平家の遺臣・悪七兵衛あくしちびょうえ景清を、はるばる鎌倉から訪ねて来たのが、尾張国熱田の遊女とのあいだに生まれた娘・人丸だった。

 

 ♪ 消えぬ便たよりも 風なれば。

 消えぬ便も 風なれば。

 露の身いかに なりぬらん。

 

 風に誘われた雲の如く巻き起こった秀雄の寂びた謡が、幽清の笛の音に重なる。


 ――おお、この世のものとは思えぬ見事さだ。


 かように麗しい演奏はかつて聴いた記憶がない。重長は思わず低く呻いた。

 

 ♪ 相模の国を 立ちいでて。

 誰に ゆくへを 遠江げに 旅舟の。

 三河にわたす 八橋の。

 雲居の都 いつかさて。

 仮寝の夢に 馴れて見ん。

 

 人目を忍ぶすがたも忘れた3人は、一体になってひとつの人影の出現を待った。

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