第48話 野可勢の笛⑤ 🌸八ヶ岳伝説と風の三郎石祠





 国境を過ぎたとたん、周囲の風景も一変した。


「あれが噂に聞く八ヶ岳連峰にござりましょう」勝手知ったるごとき重長の案内に、幽清と秀雄は同時に首を巡らせ、はるか彼方の二等辺三角形とを見比べた。


 霊峰富士をありがたく伏し拝んだのは最初のうちだけで、天色の空に蛇の目傘を伏せたような風景を見飽きた頃には、安定感のある山容は後方へ遠ざかっていた。


「八ヶ岳の山容は、伝説のとおり、まことに面白い形をしていますね」

「頂上の奇妙な凸凹が、富士山との高さ争いの証左にございましょう」


 幽清と秀雄は口々に、東の空に荒々しい山巓を奔らせる八ヶ岳を評した。

 旅の道すがら、重長がふたりに語って来た両山を巡る伝承は次のとおり。

 

 ――いまは昔。八ヶ岳の頂上が富士山より高かったころのこと。富士山浅間ふじさんせんげん神社の女神・木花之佐久夜毘売命このはなさくやひめのみことさまと、八ヶ岳を守る男神の権現さまは、

「ああ惚れ惚れ。どこからどう見てもわが富士山は日ノ本一のお山にござります」

「なにを馬鹿な。だれがどう見たってわが八ヶ岳に軍配が上がるに決まっておる」

 それぞれの勝利を声高に言い募り、互いに一歩も譲ろうとしなかった。


 仲裁に入ったのは、両山の中間に位置する木曽御嶽山の阿弥陀如来さまだった。


 公平を期そうと知恵をめぐらせた阿弥陀如来さまが双方の山の山頂に樋を渡し、中央から水を流し込んで裁決の基準とした結果、八ヶ岳の優位が判明したが、敗れた木花之佐久夜毘売命さまはギリギリッと歯を鳴らして悔しがり、権現さまの頭を棒で思いきり叩いたので、八ヶ岳の稜線は八つの峰(硫黄岳、横岳、阿弥陀岳、赤岳、権現岳、旭岳、西岳、編笠山)に分かれ、山頂は富士山より低くなった……。

 

 息子のために富む国を横取りした天照大神の野望と通底する、女神の身勝手ぶりを揶揄したとも言えそうな伝説の山容を眼前に仰ぎ、圧倒的な迫力に感嘆しきりのふたりに気をよくした重長は、とっておきの四方山話を披歴することにした。


「この八ヶ岳山麓のとある村に、風の三郎を祀った石祠があるそうです」

「風の三郎とはまた珍妙な……。それは人名? それとも、風の名称?」


 幽清の素朴な質問にいち早く答えたのは秀雄だったので、重長は息を呑んだ。


「富士山の女神に叩かれて八つに分かれた嶺のひとつ権現岳は、別名を風ノ三郎岳と申しますが、そのふもとに、諏訪湖の水煙を盛大に巻き上げてはどっとばかりに吹き降ろす、八ヶ岳颪の通り路になっている谷間の村があるそうです。家屋敷までさらう暴風はやてが吹かぬよう、穏便な風送りを祈願する標章が風の三郎の石祠とか」


 なんだか妙な。

 幽清ひとりの関心を、大の大人ふたりが競い合うような格好になってきている。


 ――これではまるで、富士山と八ヶ岳の争いの再現ではないか。


 胸中で拘泥している重長のとなりで、幽清が凛々しい眉を悲し気に曇らせた。


「なんとも切ないものでございますね、大雨や大雪、ひでりや冷夏のみならず、予測がつかぬ大風にも、石祠まで造って祈りを捧げねばならぬ民百姓の暮らしとは」


 世が世なら将軍の後継を目されたかもしれぬ少年僧の、自ずから滲み出る仁徳。


 育ての親の秀雄が、あらためて惚れ惚れと幽清の横顔を見つめ直す間もなく、「まことに仰せのとおりにございます。しかるに幽清さま。その村ばかりではございませぬ。同じく八ヶ岳山麓にある甲斐清里や、これから向かう諏訪湖の釜口水門を源流とする天竜川を隔てた伊那中川、さらにお国もとでは会津若松の大戸岳山麓にも風の三郎神社がございます。海辺では海ノ神、山では山之神を崇め畏れつつ、古今の民百姓の暮らしが営まれております」今度は重長が答えを急ぎに急いだ。

 

 蔦木宿のつぎの金沢宿で甲州街道に別れを告げ、かつては武田軍の軍事上の要衝だった杖突つえつき街道に分け入って行く。頂上の杖突峠まで1里にも満たぬ短い道のりだが、高低差は実に75丈(230メートル)もある急傾斜である。


 峠の南側に聳える守屋山は諏訪大社のご神体で、地上に降臨された神さまが初めて杖を突いた所が杖突峠。同峠に付された晴ヶ峰の別称も、ハレの儀式が行われる峰にちなむそうな。


「何やらこう、神がかった気をビンビンとお感じになりませぬか、幽清さま」

 間近におわす遠祖、片倉辺命かたくらべのみことの気配に励まされた重長がお道化てみせると、

「はい、わたくしも先刻から不思議な気を、そこはかとなく感じておりました」

 素直に応じて周囲を見回した幽清は、つぎの瞬間、少年らしい絶叫を発した。


「うわあ、あちらをご覧ください。一面の篠竹の向こうに、諏訪湖がほら、あんなにもキラキラと。まるで天の女神さまがお化粧に遣われる巨大な鏡にござります」


「おおおお、胸のすくような絶景でござるな」

「これぞまさしく、みすずかる信濃にござる」


 重長と秀雄も同時に共感の吐息を漏らした。


 青い湖面の色を映す眸を東方に転ずれば、隔てるものとてない広やかな中空に、つい先刻、間近に振り仰いだばかりの八ヶ岳や霧ヶ峰、さらには遠く王ヶ鼻の高い峰々が、ずらっとばかりに横一列に並んでいる。


 そのままぐるりと首を廻らせれば、はるか北西の雲上には巨大な六曲一双屏風を立て連ねたような飛騨山脈が、夢のなかの情景のように淡い水色に浮かんでいた。

 諸神のおわします諏訪ならではの神々しい風景に、3人は思わず手を合わせた。


 隙間なく四囲を取り囲む聖なる山々に旅の成功を祈念したとき、にわかに掻き曇った空から、葡萄の房のごとく嵩高な雨が、どしゃっとばかりに落下して来た。急いで雨宿りの場所を探すと、古錆びながらも趣のある朱の鳥居が目に入った。


「ひとまず、あそこで時雨をやり過ごしましょうか」

「西の空が明るんでいますから、なに、すぐに晴れるでしょう」


 駆け込んだ山中の鄙びた社は、これまた諏訪大社の末社にちがいなかった。

 荷物を下ろして身体を休めながら、天の使いとも思える雨簾を眺めているうちに猛烈な眠気に襲われた3人は、母の胎内にいるような安らぎのなかで、神代の夢に遊んだ。

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