第44話 野可勢の笛① 🌼秀忠没す、時機到来!




 

 寛永9年1月24日(新暦1632年3月14日)。

 江戸城西之丸で大御所・徳川秀忠が没した。享年54。


 天正7年(1597)4月7日、徳川家康の3男として遠江国浜松に生まれた。

 母親は2度の結婚歴を経て側室に迎えられた西郷局である。


 長兄・松平信康は、正室・五徳姫の讒訴ざんそによって義父・織田信長からしいされ、次兄・結城秀康は人質として豊臣家の養子に入ったので、結果的に3男・秀忠が嫡男扱いとなった。


 慶長5年(1600)、21歳のとき迎えた関ヶ原合戦では、関が原へ行軍途中の信濃上田城で真田昌幸・信繁父子によってさんざんに翻弄されたあげく、肝心の合戦に5日も遅参し、ようやく着到したときには、すでに戦いは終わっていた。


 面会も適わなかった父・家康の怒りが解けた同10年、2代将軍に就任した。


 元和6年(1620)、5女・和子が入内、念願の天皇の外戚入りを果たした。

 同9年、2男・家光に将軍を譲るが、父に倣い、大御所として君臨しつづけた。


 同じ享年で没した6歳上の正室・お江ノ方に遅れること6年後の永逝だった。

 だれの目にも不可解な弟・忠輝の処遇には、最期まで触れずじまいだった。

 


 同日酉の刻。

 仙台からの早飛脚を帰した片倉重長は、妻・阿梅姫に敢然と告げた。


「室や。ついに時がまいったぞ」

「殿。やはり、そのお覚悟であられましたか」

 信頼し合う夫婦は短い会話だけで事足りる。


「して、いつ?」

「気持ちは逸るが、急いては事を仕損じる。できれば秋、遅くとも年内じゃな」


「五六八姫さまと幽清さまの御為にも、どうかご入念に策を練られ、長年のご念願をきっとご成就なさいますよう、わたくしも蔭ながらお祈り申し上げております」


 夫と五六八姫の仲に疑心を抱いていた時代は遠去かり、継室に迎えられて12年目の阿梅姫は、重長を援ける妻として、純粋に伊達家と片倉家のお役に立ちたいと切望していた。


「かたじけない。まだ先の話じゃが、留守中のこと、よろしく頼むぞ」

「相承知いたしました。守信も控えてくれております、どうかご安心してご本懐をお遂げになってくださいませ」


 大坂夏ノ陣のあと、姉・阿梅姫を頼って白石に落ち延びて来た異母弟・大八は、主君・政宗の後援を得た重長の采配で元服して片倉久米介守信を名乗り、伊達家の家臣に名を連ねていた。


「ふむ。これを機に、時代は大きく動くであろう。守信どのにも、晴れて真田姓を名乗らせてやれる日も、そう遠くないやもしれぬのう」

「まあ、うれしい! 草葉の陰で、亡父がどんなに喜びますことか」


 今生の別れの真田信繁の言葉を思い返した阿梅姫は、思わず語尾を震わせた。


 ――真田の血脈を絶やすな。そのために、そなたは何としても生き延びよ。


 徳川の安泰のため、如何に小さな禍根でもことごとく根絶やしにしようと執拗を極めた豊臣残党狩りの状況から、一時は絶望的にも思われた父の遺言がついに実行に移されるときが、現実に訪れようとしている。


 親子ほど歳の離れた継室が、万事において控え目な所作のもとで、その日をどれほど待ち望んでいたか、戦場の信繁から阿梅姫を託された重長は、痛いほどに理解していた。


 東信濃の豪族・海野氏に発する真田の血脈は、下野・犬伏の父子3人の秘密談義により、徳川軍に就いた兄・信之が受け継ぐ手筈にはなっていたが、信繁は、ほかならぬ自分の血を、どうしても残しておきたかったはずだ。その父の凄まじいまでの執念が娘の阿梅姫に乗り移り、さびしい異郷の日々の芯の支えとなっていた。


「あのな」

 重長はおごそかに語り始めた。


「諏訪神人と称えられたそなたのご先祖にも所縁のことゆえ、心して聞くがよい」

「心得ましてござります」


 阿梅姫は思わず、母の形見となった信濃国分寺の蘇民将来の御符を手に取った。

 父・信繁、母・芳野、両親が揃って信濃上田の出身ゆえ、ゆえあって紀州九度山に生まれる仕儀に至った自分もまた、純粋に信濃上田の人間であることを阿梅姫はいつもどこかで意識している。


「倭で最古の神社のひとつである諏訪大社は、荒ぶる戦いの軍神であられると同時に、日々の命を繋ぐ狩猟と漁業の守護神でもあられる。海のように巨大な諏訪湖を挟んで南側の上社には本宮と前宮、北側の下社には秋宮と春宮の4社が鎮座ましましておられる」


「四つのおやしろをまとめて諏訪大社とお呼びするのですね」

「そのとおりじゃ。よいか、諏訪大社におかれては4の数詞は極めて枢要じゃぞ。上社の2社と下社の2社、すべての社殿の四隅には、各社の氏子の手によって御柱おんばしらと呼ばれる柱が建立されており、7年目に一度ずつ建て替えるのが古からの倣いになっておる」「まあ、ご苦労さまなこと」


「山から伐り出した樅のご神木を高らかな木遣り唄に合わせて里へ曳き出し、急な勾配の山坂を引き落とす『木落とし』や、途中の宮川の流れを曳き越す『川越し』などの見せ場がある御柱祭は、荒ぶる男祭りとして、毎度、天地をひっくり返したような大賑わいになるそうじゃ」「どんなお祭りか拝見してみたいものですわね」


 阿梅姫の憧れに共感するように、侍女の蘇鉄も丸い膝を前のめりにさせている。

 重長の家臣との結婚を間近に控え、隠しても隠しきれぬ喜びが蘇鉄の所作を自ずから弾ませていた。


「いつか室も、わが遠き故里の信濃諏訪へ、さらにそなたの先祖がおわす上田へも連れて行ってやりたいものよのう。むろん、蘇鉄たち夫婦も一緒にのう」


 故郷を同じくする夫と妻は目顔を交わし、まだ見ぬ信濃の風景に思いを馳せた。

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