第43話 諏訪へ配流㉖ 🌸片倉守信(大八)と幽清
「ところで、本日は姫さまにお目にかけたい者を連れてまいりました」
ひとりの人間には重すぎる負荷に喘ぎつづける身の上ゆえ、いったん没入したら最後、延々と果てしなく展開する五六八姫の回想癖を憚りつつ、重長が遠慮がちな声をかけた。
「はて、どなたじゃな?」
「入れていただくがよい」
巧みな筆で四季折々の花鳥風月が描き散らされた襖に重長が声を放つと、細密な透かし彫りの欄間近くにまで全山の紅葉を艶やかに広げた1枚が音もなく開いた。
濃い眉の下の
――この者は?
五六八姫の目顔に応え、重長が至って簡潔に紹介した。
「愚妻の弟にて大八と申します。現在は片倉守信を名乗っております」
「ふむ。奥方と仰ると、ご無礼ながらどちらの? ふむ、二番目の? ……ということは日ノ本一の兵たる左衛門佐さまのご子息に当たられるのが、この若侍か?」
重長が答えるより先に、血気に逸る若武者が自ら名乗りをあげる。
「奥方さまにはお初にお目にかからせていただきます。それがし、真田左衛門佐の倅にて、片倉守信と申します。以後、よろしくお見知りおきをお願い奉ります」
「この者が姉上の阿梅姫を追ってまいった……もうこんなに立派になられたのか」感に堪えぬように五六八姫が呟くと、「夏ノ陣から半年後、わずかな家臣に守られて白石に落ち延びてまいりましたときは、まだ4歳でございましたが、お殿さまのご温情をもちまして、昨年、無事に元服を済ませ、ご家臣の末席に連なる栄誉まで賜りました」主君・政宗への尽きせぬ感謝を述べながら、重長は深々と平伏した。
慌てて義兄を見習う守信にやさしい微笑を送った五六八姫は弾んだ声をあげる。
「おお、そうであった。間合いがいいことに、本日は格好の年頃の者が当屋敷にまいっておる。御公儀の目を憚らねばならぬ者同士、この機会に親しくなるがよい」
「と仰られますと、もしや幽清さまが?」問い返す重長の声音も喜色に満ちた。
「まことにありがたい巡り合わせじゃ。これもデウスさまのお導きであろう」
五六八姫の目顔を受け、控えていた侍女の茜音が静かに部屋を出て行く。
間もなくやって来たのは、いつもどおり影の如く秀雄を従えた黄河幽清だった。
幽清は夏ノ陣の翌年の生まれゆえ、紀州九度山生まれの守信より5歳年下ということになる。
童顔の上に初々しい髷をのせた守信。
生まれついて清らかな坊主頭の幽清。
両者は互いにひと目で相手を気に入ったことを、暗黙裡に確認し合った。
「せっかくの機会じゃ、得意の謡を
「はい。叔母上さま、畏まりました」
「ええっと……申しては何じゃが、玄人はだしの秀雄どのの舞いはもとより、幽清どのの篠笛も、このお歳にしてはなかなかのものじゃ。世に笛吹き多しといえど、これだけの名手はそうはおるまい。とくと聴かれよ。白石への土産話になろう」
つい先刻の憂い顔から大甘の母親の顔になった五六八姫は、臆面もない息子自慢をさらに長々と披歴しかけたが、夏ノ陣以来、生母と生き別れになったままの守信の辛い立場に危ういところで気づき、慌てて大仰な咳払いで取りつくろった。
「演目はやはり『桜川』がよいであろう。幸か不幸か、父上の荒療治のおかげで、いつまでも恨みの縁をさまようておったわたくしも、なんとか立ち直れそうじゃ。同じ境遇の守信どのにとっても、遠慮なく流せる涙は、なによりの良薬になろう」
幽清が袋から篠笛を取り出すのを待ち、秀雄の短い合図で演目が始まった。
♪ 桜川 散りにし 風の 名残には
水なき空に 波ぞ立つ。
思ひも深き 花の雪
散るは 涙の 川やらん。
賢げに耳を傾けていた守信の初々しい頬に、見る見る赤みが射していく。
♪ げにげに見れば
花の
散れば 桜も桜川 散れば 桜も桜川 流るる花を すくはん。
花の下に 帰らんことを 忘れ水の 地雪を受けたる 花の袖。
物語が佳境にさしかかると、じっと瞑目した守信は、膝の上の拳を握り締めた。清潔な若い骨を隆々と浮き上がらせた青い塊がふたつ、ぶるぶると小刻みに震えている。尖った
♪
もとの姿は 変われども さすが 見馴れし
よくよく 見れば 桜子の 花の
鶯の あふときも 鳴く音こそ 嬉しき 涙なりけり……
謡は終盤を迎えた。
奏でる幽清、舞う秀雄、聴く守信、見守る五六八姫と重長の目からもいっせいに熱いものが噴きこぼれ、老若の僧形、若武者、奥方、中堅の武者すがたのそれぞれの頬をしとどに濡らしていく。
とりわけ父・小十郎景綱譲りの義に篤い重長は、いずれも肉親の縁に薄いふたりの若者を前に、かねてより胸の奥に秘めていた沸々と期する何事かへの誓いを新たにしたものと見え、いつになく神妙な顔付きで、吹き終えた篠笛を袋に収める黄河幽清を見守っていた。
この年の暮れ、江戸で正室・綾姫が他界した。
自分自身のことはさておき、ひたすら片倉家のためを思う、正真正銘の賢夫人であった。自身の病弱にかこつけて早々に妻の座を阿梅姫にゆずり渡し、自らの身は江戸に置いて御公儀の人質となったまま、ただひと言の不平不満もなく、むろん、自慢めいたこともいっさい口にせず、持ち前の愛嬌のある笑顔を無心に広げ、周囲への尽きせぬ感謝を述べながら、静かに彼岸を渡って行った。聖女の如き生涯に、遺された重長と阿梅姫は、命ある限り手厚い法要を欠かさぬことを誓い合った。
翌寛永4年(1627)正月。
めでたい新春といえど、訪れる人とてまばらな仙台城西屋敷の五六八姫のもとに、片倉小十郎重長が新年の挨拶に出向いた。初めて継室・阿梅姫を伴っている。
「謹んで新年の言祝ぎを申し上げます。五六八姫さまにおかれましてはつつがなく佳き歳を迎えられましたこと、ますます大慶に存じ上げます。ご紹介が遅れましたが、これなるはわが継室にございます。何卒よろしくお見知りおきくださいませ」
重長の口上に合わせ、横に控えた阿梅姫は、慎ましやかに白い手をつかえた。
「お初にお目にかかります。梅にござります」
名を表わす如きあまりの清らかさに、一瞬、度肝を抜かれた五六八姫だったが、そこは年の功、すぐに立ち直って「阿梅姫どのか。小十郎どのから惚気話を聞かされておるぞ。聞きしに勝る別嬪さんじゃな」「さような。滅相もございませぬ」
桜貝のように可憐な耳たぶまで染め、いっそう畳に顔を近づける阿梅姫に、
「遠慮は無用じゃ。ささ、面を上げて、美しいお顔立ちをよおく見せておくれ」
生来の負けん気を封じ込めた五六八姫は、主人らしく鷹揚なところを見せた。
なにかと激しやすい五六八姫の性癖を夫から聞き及んでいる阿梅姫は、恐る恐る顔を上げた。いずれ劣らぬ美女同士が、正面から発止と対峙するかたちになった。
先に目を逸らせたのは五六八姫のほうだった。
「お若いのう。わたくしとはちょうど10歳違いか。姉と妹、まごまごすれば親子といっても通るほどの開きがある。玉のごとき肌の輝きなど、眩しゅうて目も開けておられぬわ」「いいえ、決してさようなことは。奥方さまのお美しさこそ……」
慌てて打ち消そうとする阿梅姫を、脇息にもたれた五六八姫はゆったり制した。
「奥方は別嬪に限るわ。それでこそご亭主どのも働き甲斐があるというものじゃ」
豪快に笑いながら、盛んに頭を掻いている重長に意味深な流し目を送ってやる。
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