第40話 諏訪へ配流㉓ 🌸黄河幽清の『桜川』
♪ 筑波山 このも かのもの花盛り
雲の林の 蔭茂き 緑の空も うつろふや
松の葉色も 春めきて 嵐も浮かむ 花の波
桜川にも 着きにけり 桜川にも 着きにけり。
はるか往古の女人の心そのままに、やわらかな春風に乗った篠笛が
はらはらと川面に散りこぼれる桜花の儚さに愛娘・
――なぜ、いま、子恋いの『桜川』なのじゃ。
性質のわるい意地悪か、いやがらせかとも邪推される。
五六八姫は顔を引きつらせつつ、うしろを振り向いた。
と、11歳の黄河幽清(龍千代)が吹く篠笛に合わせ、52歳の秀雄が唄い、舞っている。五六八姫の咎め立ての視線をよそに、孫と祖父の如き一対は、昔語りに集中していた。
♪ 女狂の
美しき
桜川に 流るる花を すくひ候が
けしからず 面白う 狂ひ候。
堪えきれず五六八姫は袂で耳をおさえたが、楽の音は小袖の布を分け入り、しんしんと染み入って来る。聴きたくないのではない。本当は聴きたいのだ。五六八姫が承知している謡の内容は、哀哭としか表現しようがない母と子の悲劇だった。
その昔、日向国桜馬場に極貧の母子が住んでいた。
母の苦労を見兼ねた娘の桜子は、自ら
――お名残り惜しゅうございますが、わたくしは旅に出ます。これを機に母上もご出家なさり、お辛かった前半生の分まで、心やすらかな後半生をお送りくださいませ。
娘の健気な書き置きを読んだ母は、
――なんという考え違いを。どんなに貧しくともおまえとふたりで暮らせることがこの母の幸せだったのに。そのおまえがいなくなっては、なにを希望に生きればよいのか。
身も世もなく嘆き悲しみ、氏神の
それから3年後の春、疲れ果て、狂乱した母は、常陸国の桜川にたどり着いた。
肥沃の地らしく豊かな水を湛えた川面は、遠目にも眩い陽光を照り返している。
のどかな風景に惹かれ、桜川に近づいた母は、はっとして慄いた。
岸辺の桜の木から可憐な花びらがほろほろと舞い落ち、絶え間なく瀬音を立てる小波にやさしげなすがたを浮かべたかと思うと、次の瞬間には川下に運び去られて行く。子恋いの母にとって、桜の花びらの一片一片が娘の桜子そのものだった。
――このまま見過ごしにすれば、花びらと同じ名前のわが娘に二度と会えぬやもしれぬ。川面に浮かんだ花びらを掬わねば。ひとひらたりとも川下に流さぬよう、この身を挺して、すべての花びらを救わねば。
思い詰めた母は着物の裾が濡れるのも忘れて川に飛び込み、傍目には幽鬼の如く目を吊り上げ、髪を振り乱し、つぎつぎに川面に落ちる花びらを懸命に網で掬っては岸に上げていた。
――あれを見よ。流れる花びらを堰き止めようとは、狂女の慮外の浅ましさよ。
花見の人びとが指をさし、どっとばかりに囃し立てているところへ、生まれ故郷の日向から流れ流れ、桜川の近くの磯辺寺(現在の磯部稲村神社境内の神宮寺)に弟子入りした桜子が、同寺の住職に伴われてやって来た。
――なんと哀しげな女のすがたよ。
どことなく胸を突かれるものがあり、そばへ寄って確かめれば、垢だらけの身体に
「おかあさま!」
「おお、桜子!」
無事に再会した母と娘は、手を携えて日向へ帰り、ふたりで幸せに暮らした。
人買いにさらわれた梅若丸を探す旅に出た母が流浪の末にたどり着いた武蔵国の隅田川畔で愛児の死を知らされる『隅田川』と並ぶ子別れの謡曲『桜川』は、産褥の床からわが子を運び去られた五六八姫にとっては、残酷極まりない演目だった。
♪ 散り浮く花の 雪を汲みて みづから花衣の 春の形見残さん。
鄙の
うたてや しばしこそ 冬ごもりして 見えずとも いまは春べなるものを
わが子の花は など咲かぬ わが子の花は など咲かぬ。
多趣味な父・政宗は謡にも目がなかった。
不憫な孫が篠笛に才があると知り、弟・秀雄と共に芸能の開花を奨励していた。
御公儀の目を恐れ、江戸と同様、仙台でも愛児と離れ住む状況を強いられている五六八姫にとって、ひたすら娘思いの父の過剰な配慮はうれしくもあり、ありがた迷惑でもあった。
千々に乱れる五六八姫の思いをよそに謡曲『桜川』は切々と佳境に入って行く。
若々しい法衣姿の黄河幽清が吹く篠笛は、清冽な風に乗って高台を駆け巡った。
♪ 思ひわたりし 桜川の 波かけて
雪をたたへて 浮波の 花の
――なんと労わしい母親のすがた……。
デウスさま、物語の母親にも、どうか主の
低く呟き、甲高く叫び、押し黙り、啜り泣き、虚しく笑い、天を仰ぎ、地を見詰め、風を追い、だれにとも訴えようのない悲哀を全身から迸らせながら、わが事として身を揉みに揉む。篠笛や謡と一体になりながら、血の気の失せた頬を、幾筋もの涙が滴り落ちて行く。
♪ かたじけなしや これとても 木華開耶姫の 御神木の花なれば
風もよぎて 吹き水も 影を濁すなと 袂をひたし
裳裾を しをらかして 端によるべの 水をせきとめて 桜川になさうよ。
切っても切れぬ母と子の情を切々と奏でる哀憐な謡曲は、ついに終幕を迎えた。
濃密な物語から解かれた五六八姫は、素直に手を打ってふたりの奏者を称えた。
「見事な舞台であった。秀雄どのの技が天下一品であることはいまさら申すまでもないが、なんじゃのう、あの、その……あれじゃ、幽清どのの篠笛も、実に立派に腕をあげられた。叔母は感激のあまり言葉が出て参らぬわ。まことに重畳である」
ふっくらした頬を染めてはにかむ幽清に、庇護者らしい温情の籠もった目を向けた秀雄は、「過分なお言葉、まことに畏れ入ります。あの、本日の演目は兄上のたってのご希望でございまして……」憂いの籠もった口調で五六八姫に告げた。
「どうか、それ以上仰せになりまするな。万事、承知いたしております。大方は、謡の子別れを追体験させることで、わが夫の改易を発端にした痛恨事をいつまでも引き摺りつづけるわたくしを立ち直らせようという、父上一流の荒療治であろう」
「さように思し召していただければ……」
「いかにも父上らしいなさりようです」
「兄上に成り替わり御礼申し上げます」
青々と剃り上げた坊主頭が匂い立つ美々しい若僧に成長した黄河幽清は、いまは実の母親と承知している五六八姫と、祖父の弟と認識している秀雄のやり取りを、大きな二皮目を見開き、じっと聞いている。
――まあ、父親に瓜ふたつな。
あどけない少年僧の眼差しを受けて、五六八姫はふたたび揺すぶられた。
同じ感懐を抱いたのか、背後に控えた侍女の茜音も一皮目を染めている。
「では、そろそろ参りましょう」
「はい。すぐに準備いたします」
秀雄に促された幽清は篠笛を丁寧に袋に収めると、ふたりが居住する
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