第41話 諏訪へ配流㉔ 🌸五六八姫と片倉重長の語り






 同年9月16日。

 肉厚な葉に覆われた枝を撓らせた紫式部の実が、秋の陽に艶やかに光っている。

 いまは盛りだが、ある朝、降りた霜に、呆気なく全滅させられる日も近かろう。


 ――いまのうちにせいぜい、わが世の秋を謳歌しておくがいい。


 強制的な離縁以来、五六八姫の想念は自嘲が習い性になっている。

 皮肉げに唇を歪めて薄笑いするおのれの表情を思い浮かべると、ぞっとせぬが、日溜まりの水たまりの気泡のように鬱勃と湧き上がってくる意地悪な思いは、如何とも御しがたかった。


 絶大な武力を持つ伊達政宗の長女として育てられた五六八姫にとって、人生は常に華やぎと喜びに満ちたものでなければならなかった。他者は知らず、特別な存在である自分にはこの世の栄華が永久についてまわって当然と信じて疑わなかった。


 あの麗しい盂蘭盆会の宵、望楼から見下ろした城下に、わが身が纏う豪奢な小袖や帯や日々の食膳を彩る美食の糧となってくれている民百姓の労働と忍耐が沈んでいる。その事実に思いを馳せる温情とも聡明とも無縁であったといまにして思う。


 ――なんと浅はかだったことか。


 西屋敷の居室で爪を噛んでいるところへ、白石の片倉小十郎重長がやって来た。


 先代・景綱以来の政宗の重臣である重長は、五六八姫にとっては、幼い頃、伏見で馴染んだ9歳上の友であり、気心の知れた従兄のように近しい存在でもあった。


 そればかりか、松平忠輝との縁談が起こる前、小十郎の男前を見初めた五六八姫は、妻となる日をひそかに夢見た、甘酸っぱい思い出さえ秘していた。微妙な心の内を悟られたくなくて、五六八姫は侍女・茜音に用事を言い付けて人払いをした。


「奥方さま。ご機嫌は如何でいらっしゃいましょうか」

「まあ、なんとか息災にしておる。して、そちらは?」


「おかげさまで、わが家もつつがなく暮らしております」

「それはよかった。阿梅姫どののお加減は如何じゃな?」


「はい。室の偏頭痛は相変わらずではございますが、それがしが施す指圧をことのほかに喜びましてな、『殿の指は神の指』などと埒もないことを申しております。いつまでも子ども子どもしておりまして、まことに困ったものでございますよ」


 時候の挨拶から入る会話は、急速に核心に迫るのが倣いだった。


「やれやれ、はなから聞かせてくれるではないか。馳走なことじゃ」

「いやいや、滅相もござりませぬ。決してさようなつもりでは……」


「まあ、そう照れずともよい。かようなことは、懸命に打ち消せば打ち消すほど、かえって真実めいてくるものじゃ。そうであろう?」「恐縮至極にございます」


 なんのてらいもなく浅黒い顔を染めた重長の有頂天ぶりに水を差そうというわけでもないのだろうが、五六八姫は、ふっと眉を曇らせた。


「ところで、江戸の奥方もお達者か? 人として、まことによくできたお方ゆえ、こちらはこちらとして、あちらのお方も、ゆめゆめ粗末になさらぬことじゃ」


「とくと承知いたしております。如何な病弱の身とはいえ、命のあるうちから夫に継室を推薦するなど、女子として、人として、よほどの器量でないとできぬ仕儀にございますゆえ、わが室ながら天晴れと心から敬服いたしております」


 御公儀への証人(人質)として、江戸の伊達屋敷には、長年、政宗の正室・愛姫と共に重長の正室・綾姫も詰めさせられており、国もとの陸奥に継室候補の阿梅姫を置く二重生活は、主君・政宗も公認だった。というより、事実はまったく逆で、


 ――真田左衛門佐信繁どのの遺子らを、徹底的に匿い通すべし。


 との強い意志は、主君・政宗から重臣・重長に指示されていた。


「ならばよい。で、先年嫁入った喜佐姫どのも息災にしておいでじゃろうな」

「ありがたいことに、たいそう可愛がっていただいているようにございます」


「ふむ、さもあらん。母上の綾姫どのの薫陶よろしく、たいそう気立てのよい姫と聞いておる。良き人柄は何処でも好かれよう。親子で夫婦仲がよろしくて何より。まさにあっちもこっちも花盛りのめでたさじゃな。咲かぬはわが家ばかりなりか。冗談はともかく、その様子では跡取りの誕生も遠からずというところであろう」

「さように期待しております」


 前年、重長と綾姫の長女・喜佐姫は、伊達政宗の家臣・松前安広に嫁いだ。

 嫁に出したといっても夫婦の居館は婿殿の同意を得て重長の所領にあり、いずれ男子が誕生した暁には重長の養子に入れ、片倉家を継がせることが決まっている。


「ところで、わたくしを巡るうわさは小十郎どのの耳にも入っているであろう」

「はて……」

 困ったように首筋に手を当てた重長を、五六八姫はころころと笑って諫めた。


「いまさら隠さずともよいわ。仙台では子どもまで知っておる有名な話じゃ」

「まあ、さように仰られれば……はい」


 お若い身空で寡婦におなりの西屋敷さまゆえ、夜な夜な御身が持ちますまい。

 身近な若い武士に目を奪われるのも、生身の女人としてご無理がなかろうて。


 いや、まったく。なんなら、わしがお相手を仕ってもよいのじゃが。なにを馬鹿な。冗談も休み休み申せ。西屋敷さまは、大の美男好みでいらっしゃるのじゃぞ。おぬしのように、どっちが表かわからぬような不細工は、端からお呼びでないわ。


 いやいや、かつてはともかく、現在はそうでもないやもしれぬではないか。まあのう、なにしろ男日照りが長うていらっしゃるでな。どれ、今夜あたり夜這いでもかけてみようか。お主に先駆けはさせぬぞ、こう見えてわしだってまだまだ……。


 西屋敷に出入りする美男侍を巡る艶っぽいうわさがことさらに喧伝されていた。


 13歳のとき松平上総介忠輝と結婚し、夫唱婦随の9年を経て、22歳で離縁。それから33歳の今日まで、花の女盛りを孤閨を貫いてきたことを、事あれ好きな世間ではなにかと取り沙汰し、西屋敷さまこと五六八姫の周辺を、鵜の目鷹の目で探っていた。


 実際、うわさはあながち見当違いではなかった。

 一向にご赦免の沙汰がない状況に苛立った五六八姫は、われながら浅ましいまでに心を荒ませ、待てど暮らせど帰って来る気配すらない忠輝の代わりに縋れそうな若武者に、ふっと気持ちを傾かせかけた記憶も、五六八姫には、あるにはあった。


 われとわが身の軽率を自嘲しながら、五六八姫はこっそりと重長に打ち明けた。


「茜音がのう、初めてわたくしに歯向こうて来たのじゃ」

「ほう。それはまた、如何様な仕儀でございましょうか」


 ――忠義一辺倒、侍女の鑑のような茜音どのが、五六八姫さまに反抗を?


 重長の驚愕ぶりを見ながら、五六八姫はあっさりとおのれの恥を吐露した。


「偉大なご両親、大勢の家臣、類い稀な美貌と、姫さまは何もかもお持ちではありませぬか。たしかに殿さまは遠流となられましたが、代わりに、お可愛らしい若君まで得られました。ですから、ひとつぐらいわたくしにお譲りくださっても、罰は当たらないと存じます」あろうことか、五六八姫は侍女の声音まで使ってみせた。


「さように茜音に詰め寄られてな、さすがのわたくしも、ぐうの音も出なんだわ」

 権高そのものだった往時の姫には考えられぬ、過ぎるほどに率直な告白だった。


 ――若いうちの苦労は買ってでもと申すが、これほど人を変えるものなのか。


 呆気に取られている重長に、五六八姫はあらためて悪戯っぽい視線を流す。


「あのな、ここだけの話じゃが、申しては何だが、わたくしにとってはあくまでも殿の代替、いっときの慰みに過ぎなかったゆえ、ひとかけらの未練もあるものか。若いふたりの望みどおり、さっさと茜音に下げ渡してやってかえって清々したわ」


 ――お労しや。敢えて露悪的に仰っておられる。


 深く傷ついた五六八姫の心の内を素早く察した重長は、黙って目を伏せた。



 京育ちを鼻にかけ、いつまでも仙台の風土に馴染もうとされぬ驕慢な姫君じゃ。

 山出しの仙台の芋侍など、頭から相手にされるものかよ。

 ほれ、なんじゃわ、犬が前足でちょいちょいと蟻を弄ぶようなものじゃわい。

 女郎蜘蛛が張った妖しげな巣に掛からぬよう、若い者どもに注意しておかねば。


 栄華の頂上から落魄してもなお、民百姓の手が届かぬ贅沢な暮らしを保障される立場へのやっかみ半分の風評が絶えぬ五六八姫の一番の理解者が、幼いころからの友人の片倉小十郎重長だった。両名はいまや男女を越えた友情関係にあった。



 風が通ったのか竹林が騒めき、池の鯉が跳ねる音がした。

 長尻の客を促すかのように、障子に陰りが射し始めている。

 重長は話の先を急いだ。


「ところで、上総介さまのその後について内々のお知らせはありましたか」

 痛いところを突かれた五六八姫は、かたちのいい柳眉を見る見る曇らせた。


「いや、まったく音沙汰なしじゃ」

「さようですか。もともとご壮健な方ゆえ、ご心配はないと存じますが」


「わたくしもさように念じてはおる。だがな、小十郎。こたび殿が配流替えされたという諏訪の地は、格段に寒さ厳しきところと聞く。越後福島の大雪も堪え難かったが、海の如き大湖にせり出して建つという高島城の真冬はさぞかし辛かろうて」


 ――標高の高い信濃では、ひときわ訪れが早いそうな。


 高駄を履いた冬将軍に思いを馳せた五六八姫は、鶸色ひわいろに臙脂や白の萩の花を乱れ咲かせた小袖の、地味なだけにいっそう華奢な骨組みが際立つ肩をぶるっと震わせた。


 長い嘆息のあと、五六八姫は重大な秘密を打ち明けるかのように声を潜めた。


「それにな、ああ見えて殿は、長いものがなにより苦手でいらっしゃる。水辺には長虫がつきものであろう。第一、諏訪大社のご祭神自体が長虫というではないか。気味悪い姿形のものどもが、あちらこちらにうじゃうじゃと蜷局とぐろを巻いていそうな湖畔の城に起居するなど、どんなにか気色のわるいことであろうのう」


 

 この年の4月22日(新暦5月17日)。

 35歳の松平忠輝は、改易の憂き目以来つき従ってくれている44人の家臣団と共に伊勢朝熊、飛騨高山に次ぐ3度目の配流地、信濃・諏訪の高島城へ送られた。


 仙台に龍千代を迎えてから6年後のことだったと、五六八姫はあとで知った。


 今度もまた、ありがた迷惑な預かり人を御公儀から託された飛騨高山の藩主が、上総介の粗暴に手を焼いて配流を願い出たと、世間ではうわさしているらしい。


 ――もし、それが本当なら、改易から10年後のいまもなお意気軒昂で、小さな島国の枠を越えた壮大な夢を育んでおられるわが殿の祝着に、むしろ最大級の賛辞を贈りたいくらいじゃわ。父上は如何に思われているか知らぬが、少なくとも妻のわたくしは、どこまでも殿の、絶対的なお味方じゃ。


 髭面の強面ゆえにそうは見えぬが、意外にも甘えん坊で、妻に褒めてもらうことをなによりも喜んだ新婚時代の夫を思い出した五六八姫は、対峙する重長の目まで凍りつかせるような、森閑と淋しげな笑みを、うっそりと浮かべている。


 敢えて面を上げた重長は、遅ればせながら先刻の問いへの返答を申し述べた。


「大丈夫。すべてはわが遠祖・諏訪大明神さまがお守りくださいます」

「片倉家の祖先なるお方は、さほどまでに力のある神さまなのか?」


「はい、それはもう。軍神として崇められる武田信玄公も、御行軍の際の御旗指物に『諏訪南宮上下大明神』と打ち抜かれてご出陣なさったほどにございます」

「さようであったな」


「すでにご承知おきとは存じますが、念のため、わが祖についてご説明させていただきます」

「ふむ。長うなりそうじゃな」


「あいたたた、畏れ入ります」

「小難しい話は苦手じゃ。なるべく嚙み砕いて頼む」


「御意にて。では。全国各地に25,000を超える末社を有するわが諏訪大社は、諏訪湖の南側の上社と、北側の下社に分かれております。上社本宮のご祭神は建御名方神たてみなかたのみこと、上社前宮と下社のご祭神は八坂刀売神やさかとめのかみで、わが片倉辺命かたくらべのみことは建御名方神からの岐れにございます」

「偉いものじゃな」


「ありがたきお言葉に存じます。その由緒正しきわが祖の片倉辺命が上総介さまをお守りさせていただきます。なにしろ、ご祭神自体が由緒正しき大蛇おろちでございますから、その辺をうろうろとのたくりまわっている素浪人の長虫なんぞは、恐れるに足りませぬわ。はっはっはっ」


 やっぱりな先祖自慢に苦笑しつつも、五六八姫は重長を頼もしげに見やった。

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