第39話 諏訪へ配流㉒ 🌸仙台城下の光の十字架





 

 寛永3年3月20日(新暦1626年4月16日)未の刻。


 32歳の五六八姫は、仙台城本丸の東「御懸おかけ造り」に建てられた望楼邸の庭園から、一面のとき色に彩られた城下を眺めていた。


 少し離れた場所に侍女の茜音が控えている。

 江戸屋敷から帰仙(正確には来仙)して迎える5度目の春だった。


 ――生々流転。まさに夢のような歳月が流れて行った……。


 こうして穏やかな日差しに温む城下を眺めていると、徳川家康の6男・松平忠輝に嫁してから今日までに見舞われためまぐるしい転変が、われながら信じがたい。


「のう、茜音。たしかにわが身に起きた出来事なれど、他人事のようでもある」

「波乱万丈では言い尽くせぬ、まさに怒涛のごとき来し方であられましたゆえ」


 私事に大仰な物言いを好む主の質を知悉している侍女は、完璧な答えを返した。

 唐突な誘い水にも狼狽えずに済むだけの歳月が、我儘いっぱいの少女時代から、仕える側からすれば必ずしも順調だったとは言いがたい主従の間に累々と積み重なっている。


 そんな侍女の思惑をよそに、五六八姫の脳裏をさっきからしきりに去来しているのは、父・政宗に連れられて娘時代の最後に眺めた盂蘭盆会うらぼんえの麗しい情景だった。

 

 伏見で生まれて大坂へ、江戸へ、再び伏見へ、さらに再び江戸へと、ときどきの天下人の命ずるままに、各地を転々として育った五六八姫は、慶長11年(1606)6月、初めて父・伊達政宗が治める仙台の地を踏んだ。


 ――馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理してもてなすことなり。


 武人には珍しく繊細な質で、常日頃から料理や接待に並々ならぬ心を砕き、好きが嵩じて自ら凍り豆腐や納豆ずんだなどの珍味を創り出すほどの粋人すいじんとして知られる政宗は、生まれ育った京の文化に馴染みきった長女のため、当地ならではの食材を存分に駆使した美味珍味を、三度三度の食卓に用意させた。


 その一方、半年後に結婚を控えた娘のため、究極の親馬鹿とも言われそうな壮大な仕掛けを内密に企てていた。


 迎え盆の夕方、涼しげな桔梗の花模様の絽をきっちりと身にまとい、お葛かけやそうめん、精進揚げなどの郷土料理で早めの夕餉を済ませた五六八姫は、「どうじゃな姫。今宵あたり夕涼みに出てみぬか。わが仙台城の高台を吹き上げる涼風は、まさに天下一品じゃぞ」父に誘われるまま、城下を一望する望楼に出かけた。


 少し後方に、邪魔にならぬ足どりを心得た侍女・茜音が粛々と従っている。


 広大な仙台平野の四囲に張り巡らせた大東岳、面白山、泉ヶ岳、蕃山、戸神山、太白山などの山々は、いっせいに荘厳な瑠璃紺色に暮れなずみ、眼下には関山峠に源を発する広瀬川が昼と夜の間を揺蕩う神秘の帯のように、ゆったり流れている。


 武家屋敷と町屋で隙間なく埋め尽くされた城下に、いましも紅掛空色の闇が忍び寄ろうとしていた。


 ――まあ、きれい!


 五六八姫は声にならぬ声を発した。

 刻一刻と退却する空を追うように、家々の門口に点った灯が明度を増して行く。

 柑子色から金茶色、蜜柑色へ、さらに赤橙色へと微妙に変化していく光の点描は遅く生まれた愛娘のために、号令一下、父・政宗が掲げさせた無数の灯籠だった。


 ――なんと! かように美麗な景色、京でも見たことがない。


 父が支配する地域の豊饒を肌で感じた五六八姫は、厳めしげな髭面の下で取って置きの趣向の上首尾を子どものように得意がっている政宗を、尊敬の眼差しで振り仰いだ。


 ――わが父上は、まことに力のあるお方じゃ。


 現在の天下をお仕置きされる大御所さまはもとより、いまはむかしの語り草となって久しい太閤秀吉殿下におかれても、星の数ほどある大名のなかで、わが父上には一目も二目も置かれていたと聞き及ぶが、まさにまさに心から納得じゃ。


 偉大な父のもとに生まれた身を誇らしく思いながら、とっぷり暮れた夜の底でいっそうの華やぎを増した仙台城下にふたたび目をやった五六八姫は、「あっ!」驚きの声を放った。


 ――光の十字架!


 地上に降った天の川の結晶。

 何事においても露払いと完璧を旨とする政宗らしく、南蛮渡来の最新技術を駆使し、寸分の狂いもなく整然と並べられた街並みの十字路に、巨大な十字架が燦然と浮かび上がっている。


 五六八姫ただひとりのために灯された、無上に豪華かつ至上に清らかなそれは、天上の星々に守られデウスさまご自身が降臨なさったように神々しい情景だった。


「いま、まさに主は来ませり、アーメン。父上、ありがとうございます!」


 思わず知らず十字をきる五六八姫の口もとから、素直な感謝の言葉が漏れ出た。


 天と地、デウスと自分が一体になったような陶然たる感覚にうっとりと身を任せながら、暗黒の大海に浮く異国の船のような光の十字架を、五六八姫はいつまでも眺めていた。



 伏見屋敷に暮らしていたころ、五六八姫の生母・愛姫めごひめは、明智光秀の3女で、当時は細川忠興の正室だった玉姫(ガラシャ)と親しく往来していた。聖女のように心根の清らかな5歳上の女人の薫陶を受けた愛姫は、自ら進んで神の道に踏み入った。したがって、娘の五六八姫は母の胎内にいるときからのキリシタンである。


 一夜限りの光の十字架は、豊臣時代からキリシタン取り締まりを命じられながら妻と娘の信仰を黙認していた政宗からの最大級の贈り物だったことを、五六八姫はのちに知った。


 

 いま、あの宵と同じ場所から眺め渡す仙台城下は、淡い桜一色に染まっている。

 ちょうど20年前の夏、


 ――おのれ、いまに見ておれ。豊臣でも徳川でもない、伊達こそが天下人なり。


 天下制覇の野望をたぎらせていた、男盛りの父とふたりで目撃した荘厳な情景、いまとなっては遠い夢のなかの一場面のように、脳裏の片隅で淡々しく瞬くだけの光の十字架の痕跡は、当然ながら、いくら目を凝らしても影も形も見えなかった。


 ――落花流水。なにもかもうつつの出来事とは信じがたい。


 くノ一の如く気配を消して背後に控える茜音の存在も忘れ、ほろ苦い懐旧と悔恨の念に立ち尽くす五六八姫の耳にどこからともなく物寂びた謡が忍び入って来た。

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