第35話 諏訪へ配流⑱ ❀豊臣恋しの大坂の地熱





 そんな千姫に世間はどこまでも無情だった。


 武蔵野御殿さまは、立て続けに3度も流産なさったそうじゃ。

 あれは間違いなく、大坂城で見殺しにされたお二方の祟りじゃな。

 裏切りの結果とはいえ、あな恐ろしや。


 城下に妙なうわさが広がっている。

 秘密情報の漏洩から推量すれば、出どころは城内の何某と判断せざるを得ない。


 ――もはや、だれも信頼できぬ。


 配下にまで裏切られた虚無感は、孤独な千姫をますます追い詰めて行った。


 悲嘆の底にある千姫の胸に相変わらず暗い翳を落としつづけている、執拗なうえにも執拗な秀頼生存説も一向に消滅の気配がなく、それどころかむしろ、徳川仕置きの歳月が積み重なるにつれ、豊臣恋しの地熱は高くなる一方とすら感じられた。


 豊家ご健在の時代が懐かしい。

 あの頃はなにもかも華やいでいた。

 貧乏も苦にならず、生きていること自体がお祭りだった。

 地味で野暮で気塞きぶっせいな現在の世の中とは正反対だ。

 民百姓の心の華だった右府(秀頼)さまを、豊家を復活させたい。


 巷間に漲る憤懣が、裏切り者の烙印から逃れられぬ千姫の最大の脅威だった。


 ――奥の気鬱を晴らすためには、信仰の対象を身近に置くべきやもしれぬ。


 痛々しいやつれが日ごとに増す一方の妻を案じた忠刻は、武蔵野御殿の化粧櫓の正面に対峙する男山に、千姫が信仰する天神さまを祀り、千姫天満宮を建立した。それから千姫は自身の名前を冠した天満宮に、朝夕、謝罪と鎮魂の祈りを捧げた。


 あるときは、一縷いちるの慰めに縋った卜占で、驚愕の卦を告げられた。


 ――奥方さまのお身のまわりに頻発する凶事のことごとくが、秀頼さまと淀ノ方さまの怨霊の仕業にございます。お二方の霊は心からの陳謝を待っておられます。


 心の奥で二六時中こだわりつづけている罪障をぴたりと言い当てられた千姫は、身も世もなく泣きくずれ、自分の浅慮のため彼岸に渡る羽目になった秀頼と淀ノ方の菩提を弔い、重ね重ねも不始末を詫びる書簡を自らの手でねんごろに認めると、刑部卿局、松坂局、早尾の「千姫組」を代理として、千姫天満宮に奉納させた。


 事あるごとに千々に乱れる千姫を、持仏の阿弥陀如来像が静かに見守っている。


 

 一方で慶事もあった。

 幸千代の早逝から2年後の元和9年(1623)7月1日、6歳になった長女・勝姫が2代将軍・秀忠の養女となり、鳥取藩主・池田光政と婚約した。同年7月27日、御年20歳の家光が伏見城で将軍の宣を受け、秀忠は大御所に退いた。


 同年11月19日、3年前、阿与津御寮人騒動を乗り越えて入内していた女御の和子に、皇女の女一宮興子内親王(のちの明正天皇)が誕生した。翌12月、3代将軍・家光の御台所として、摂家鷹司家の孝子が江戸城に輿入れした。



 だが、ひとり娘の婚約、気の合う弟の将軍就任、かげながら案じていた妹の無事な出産などの相次ぐ朗報も、文字どおり掌中の珠であった長男・幸千代につづき、つぎつぎに3児を喪った千姫の絶望を救うことはできなかった。

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