第34話 諏訪へ配流⑰ ❀千姫を見舞う不幸




 

 

 

 寛永3年3月7日(新暦1626年4月3日)申の刻。


 年末から江戸に入り、ご当代(3代将軍家光)とご先代(大御所秀忠)に年頭のご挨拶を済ませ、3か月ぶりに帰郷した夫・忠刻を武蔵野御殿で出迎えた千姫は、ただごとでない夫の不調をひと目で見て取った。


 お顔がいつになくあおぐろくていらっしゃる。

 息をするたびに、両の肩が忙しなく上下される。

 いやな感じの咳もひっきりなしに出ておられる。


 江戸まで往復の旅路は、さぞやお辛かったにちがいない。

 労わられ下手な夫の性格を承知している千姫は、つとめて平静な声をかけた。


「春とは名ばかりで、まだまだ肌寒うございます。とりわけ本日は冷えますゆえ、火鉢を用意させました。ゆっくり休まれて旅のお疲れをおとりくださいませ」


「なんのこれしき。大のおとこに子どもじみた扱いをするでない」

 一度は拒んだ忠刻だったが、くずおれるように座り込んでしまった。


「ほら、ご覧あそばせ。殿のお身体はもはや殿おひとりのものではないのですよ。播州本多40万石の所領と家臣を統率される大切な御身。どうか無理をなさらず」


「わかったわかった。奥には適わぬ」

「ささ、羽二重にお着替えになって」


 甲斐甲斐しく忠刻のうしろにまわりながら、千姫は、あんな悲しい思いは二度とごめんだと唇を噛みしめた。


 

 5年前の元和7年(0621)12月9日酉の刻。

 3日前から熱を出して寝込んでいた長男・幸千代こうちよの呼吸が呆気なく停止したきり、二度と復活することはなかった。享年わずかに3つという儚さだった。


 かような幸福がつづくわけがないと恐れていた日が、とうとうやって来たのだ。

 夏ノ陣以来の罪悪感に憑りつかれたままの千姫は、とつぜんの凶事に惑乱した。


 ――いやじゃ、いやじゃあ、母を置いて行かないで!


 父親・忠刻に生き写しの目も開けず、姉・勝姫と瓜二つの口許もほころばせず、人形のように小さな肢体を森閑と横たえているだけの愛児の魂魄を呼び戻そうと、千姫は獣のように咆哮した。


 ――幸千代殿。頼みます、どうかお願いします。もう一度、一度だけでいいから米粒のような歯の生えそろった愛らしい笑顔を見せておくれ。どうかお願い……。


 小袖の裾が乱れるのも忘れ、あまりにも儚なすぎて、目にも心にも痛すぎる遺骸に必死に取り縋り、まだ温もりが残る頬を撫でさすり、乾いた唇を水で湿し、女児のように長い睫毛を指先でなぞり、たまらずわが胸に掻き抱き、揺すぶって目覚めさせようとしたが、何をどうやっても、幸千代の命がよみがえることはなかった。


「千姫さま、どうかお諦めくださいませ。でないと、姫さまのお命までが……」


 なにが起ころうとも「千姫さま一辺倒」の乳母・刑部卿局や侍女の松坂局と早尾に無理やり遺骸から引き離された千姫は、わが手に、胸に、頬に残る愛児の温もりを虚しく探り、最愛の末子・嬪伽羅ピンガラを奪われた鬼子母神の如くに烈しく狂乱した。


 ようやくの思いで荼毘に付し、亡き幸千代が短い生を両親や姉と暮らした武蔵野御殿から朝に夕に拝する書写山に葬ってのちも、此岸における最大の不幸とされる逆縁の哀哭は、千姫をどこまでも鋭く、深く、痛く、容赦なく責め苛みつづけた。


 身体中の水分が失われてしまうのではないかと案じられるほど絶え間なく溢れる滴は、ひび割れ、涸れかけた涙壺の所有主まで黄泉の国に連れ去ってしまいそう。



 そんなある日。

「母上さま。死んじゃいや」

 千姫は4歳になる長女・勝姫の健気な声に、はっとわれに返った


 ――そうじゃ、わたくしはこの子の母、本多家の嫁でもあった。


 峻厳なる事実に気づいた千姫は、それからにわかに強くなった。


 殿。もう一度わたくしを身籠らせてくださいませ。きっと男子をあげてご覧に入れます。幸千代の生まれ変わりをその胸に抱かせて差し上げたく存じます。さあ、急ぎましょう。


 だが、懐妊の喜びも束の間、お腹の子は闇から闇に消えて行った。

 つぎの子も、そして、つぎの子も……。


 懐かしい家族との思い出に彩られた武蔵野御殿を前に、夜ごと、ひとりぼっちで眠らねばならぬ幸千代が、生まれて来る弟妹を呼び寄せているのではないか……。


 千姫自身が本気で不安になるほど、わずかな期間に小さな墓が増えていった。

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