第33話 諏訪へ配流⑯ 🌼蘇鉄と阿梅姫の悋気






 その夜。

 自室に引き取る前に挨拶に来た蘇鉄は、阿梅姫と目を合わせようとしなかった。


「どうしたの? 蘇鉄。どこか具合でもわるいの?」

「いえ、別に」


「だって、へんだわ。いつもの蘇鉄じゃないみたいですもの」

「あら、そうでしょうか。わたくしは至ってふつうですけど」


 取り付く島もない……とはこのことである。

 何が何だかわからず、阿梅姫は戸惑うばかり。

 しまいには悲しげな声で訴えるしかなかった。


「この白石では、ふるさと九度山時代の思い出を語り合える、たったふたりだけの朋輩じゃないの。その蘇鉄に背かれてしまったら、わたくし、どうしたらいいの」


 涙ぐまんばかりの哀願に、つんと拗ねていた蘇鉄は態度をくずした。


「近頃、妙に淋しいんですもの。わたくしだけ置いてけぼりを食ったみたいで」

「なんのこと? わたくし、いつだって蘇鉄のことを忘れたことはないはずよ」


「嘘でございます。殿さまとご一緒のときの姫さまの胸にわたくしはおりません。いえ、わかります。疎外された身には、すべてがわかってしまうものなのです」


 恨みの籠もった責め口上を聞いた阿梅姫は、かあっと全身を火照らせた。


「いやだわ、あんなことを。だって、殿さまとわたくしは、夫婦なのよ……」

「ご夫婦だからなんだって仰りたいんです? お返事になっておりませんよ」


 ピシャッと決め付けられ、阿梅姫は身の置きどころに窮した。

 こうなったら徹底的にあやまるしかない。拝み倒して機嫌を直してもらうしか。


「ごめんなさいね、わたくしが至らなかったわ。あんなに蘇鉄にお世話になっておきながら、自分だけ有頂天になって舞い上がってしまって。本当にごめんなさい」


 すっかり意気消沈した阿梅姫を小気味よさげに見やっていた蘇鉄は、さて、苦いお薬を効かせたお芝居はここまでにしてというように、ふっと目もとを弛ませた。


「許してさしあげます。わたくしだけの姫さまというわけには参りませんから」

「蘇鉄に淋しい思いをさせたわたくしがいけなかったわ。本当にごめんなさい」


「ですから、もうよいと申し上げております。ふふ、大丈夫でございますよ、こう見えて、わたくしにだって、物かげで付文のひとつやふたつ、いえ三つや四つくださる殿方の、ひとりやふたりや三人や四人はいらっしゃるんでございますからね」


 いつもの姐御肌にもどった蘇鉄に安堵したとたん、釣られて発条ばね仕掛けの人形のように妹分にもどった阿梅姫は、ついでに別件も相談してみたくなった。


「ところで、殿もどういうおつもりかしら」

「はぁ? なんのお話でございますか?」


「仙台城の西屋敷(五六八姫)さまのことを話題になさる殿さまは、なぜか少年めいて面映ゆそうなの。そのくせ、わたくしがお訊ねしないことまで、進んでご自分からお話になる。仙台へ伺ってきたあとは、にわかにおしゃべりになられるのよ」


 蘇鉄は袂で口許を抑え、ころころと笑った。


「何事かと思えば、悋気でございますか」

「あら、いやだ、そんなんじゃないわ」


「そんなんでないはずがありましょうか。れっきとした焼き餅でございますよ」

「そうかしら」

「そうですとも」


「わたくしはただ、殿のおしゃべりが少しばかり気に障ると申しただけよ」

 ぷっと頬を膨らませた阿梅姫に、年嵩の蘇鉄はざっくばらんに忠告する。


「けっこうでございますよ、新妻がほどよく妬くのは、なんとも可愛らしゅうて。さような奥方に、殿さまはますますの字でございましょうよ」

「あら、いやだ、そんなこと」


「ただ、過ぎたるは猶及ばざると申します。ほどほどに妬いてこそでございます」

「わかったわ。狐色はいいけど、真っ黒に過ぎたら疎ましがられる。でしょう?」


「さすがは姫さま、お察しがお早い。たしかに五六八姫さまはお大名の奥方さま方の中でもとびっきりの別嬪でいらっしゃるそうですから、ご心配なさるのも無理はございませんが」「あら、そうなの? あらめてそう言われるとまたしても……」


 別嬪の言葉に過剰反応した阿梅姫は、ふたたび不安げに眉を曇らせる。


「でも、大丈夫でございますよ。ご先方が如何なる女人であれ、ご当家のお殿さまは阿梅姫さまひと筋でいらっしゃいますから、よそに目を奪われる余裕はおありになりません」「本当にそうかしら」


「ご夫婦のお傍近くお仕えするわたくしがドンと太鼓判を押させていただきます。ことのほか五六八姫さまをお気にかけられる件も、あくまでも主家筋にお気遣いなさってのこと。お殿さまを想われるあまりの姫さまの思い過ごしでございますよ」


「わかったわ、もう悋気しない。なぜって、蘇鉄の観察眼はたしかなんですもの」


 年下の姫のかすかな追従の匂いを、蘇鉄はすかさず利用することにしたらしい。


「その絶対的なご信頼を賜るわたくしが拝見させていただきましたところ、殿さまのご関心の在り処は、五六八姫さまご本人ではなく、御隠し子の黄河幽清こうがゆうせいさまにあられます」


 果たして、阿梅姫は素直に乗ってきた。

「あら、そう。母御ではなくて、お子のほうに?」


「間違いございません。西屋敷で幽清さまにお目にかかって来たことをお話になるお殿さまのお声には、生まれついて父御をご存知ないとは御不憫でならぬという、強い義の思いが滲んでいらっしゃいます。これはわたくしの勘でございますが、ひょっとして、満を持して待たれるものがおありなのではないでしょうか」


「満を持して待たれるもの? なんなの、それは」

「さあ、そこまではさすがに、如何なわたくしの千里眼でも見通し兼ねます」


「そうよね、卜占ぼくせんや巫女ではないんだから、いくら蘇鉄でもそこまではねぇ」

 しれっと千里眼に格上げしたことを意にも介さず、阿梅姫は鷹揚に同意した。


 しんしんと更けてゆく白石城の奥御殿の廻廊には、叔父・真田信之が沼田城主をつとめる上野・迦葉山かしょうざんに棲まう大天狗が、特製のぶん回しを思いきり振りまわしたような、完璧な満月が差し込んでいる。

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