第32話 諏訪へ配流⑮ 🌼阿梅姫の偏頭痛






 信濃はまた、重長の遠い故里でもあった。

 片倉の祭神片倉辺命かたくらべのみことは、全国各地に末社を擁する諏訪大社の祭神・建御名方神たけみなかたのかみを祖とする。


 もともとが諏訪湖周辺の守屋山南麓に居住する国津神系の氏族だった片倉家は、天照大神に遣わされた建御雷神たけみかづちのかみとの戦いに敗れた建御名方神の来諏以来、代々が諏訪大社のおさたる大祝おおほふり職を務めてきた。


 一方、真田家は信濃小県郡しなのちいさがたこおりの滋野系の海野氏うんのしを本流とする、修験派の諏訪神党すわしんとうだった。


 信濃諏訪に発する片倉家と真田家の末裔が、遠く出羽白石で夫婦になった。

 思えば、まことに不思議な因縁に導かれた、重長と阿梅姫の邂逅であった。



「奥!」

 ほとんど悲鳴に近い声を迸らせると、重長は狂おしげに阿梅姫を抱き寄せた。

「われらの人生を十分に全うしようぞ。城下の臣民をわが子として慈しもうぞ」


「はい。殿」

 うれしげに答えた阿梅姫の細い喉の奥から、とつぜん異様な物音が発せられた。



 ――グエェーッ!


 おっとりした日頃とは別人のように、目にも止まらぬ素早さで夜具から身を起こした姫は、くるっと俯せになると、亀のように丸めた背を激しく波打たせ始めた。


「やや、偏頭痛の発作が始まったか。相すまぬ」

 慌てて撫でさすると、阿梅姫の尖った背骨が重長の指の腹にゴツゴツと触れる。


 ――なんと傷ましい。


 重長は病弱な妻への哀憐でいっぱいになった。

 激流に揉みこまれる木の葉のように身悶えていた阿梅姫の喉が、再び鳴った。

 ――グェ、グエ、グエェーッ!


 枕辺の手桶を抱えこみ、か細い全身をよじっての激烈な嘔吐が始まった。

 胃の腑まで飛び出るかと案じられるほど凄まじい吐瀉物が際限なく放出される。

 何度も吐きつづけ、しまいには酸味を帯びた黄色い胃液が粘っこい糸を引くだけの状態に立ち至るが、それでもなお阿梅姫は塗炭の苦しみから解放されなかった。

 

 底意地のわるい蛇蝎だかつに際限なく苛まれつづけるような半刻後。

 阿梅姫の肢体を思うさま蹂躙していた嵐はようやく吹き去ってくれた。


 ぐったりした妻を抱えた重長は、南蛮渡来の繊細な硝子細工を扱うように、慎重に夜具のうえに寝かせる。眉根を寄せ、目を閉じたまま、阿梅姫はひび割れた唇をかすかに動かす。「申し訳ございませぬ。お見苦しいところをお目にかけて……」


 不条理への怒りで濃い髭面を赤黒く染めた重長の目から、どっと涙が噴き出す。

「何を申す。そなたの苦しみはわしの苦しみ。いつでもどこでも夫婦は一緒じゃ」


 痛々しく腫れあがった目蓋を無理に見開いた阿梅姫は、

「殿、なんとおやさしい。……うれしゅうございます」


 心からの感謝を切れぎれな言葉で繋げ、なんとか半身を起こそうと試みている。

 かようなときにも礼儀を重んじる妻の生真面目さが、重長にはいっそう切ない。


 ――哀憐な。


 秋祭りの夜陰に紛れ、紀州九度山の幽閉屋敷を発ってから白石に至るまでの筆舌に尽くせぬ苦難の日々、かように苛烈な状況をどう切り抜けて来たのであろうか。


 ――不憫な。


 長い苦痛から解き放たれ、安らかな寝息を立て始めた妻の寝顔を愛しげに見守りながら、重長は再び心に誓うのだった。


 左衛門佐さま、どうかご安心召されませ。

 不肖某ふしょうそれがし、必ず貴殿のご愛姫あいきをお守りいたします。

 金輪際、お辛い目にはお遭わせいたしませぬ。

 人一倍に酷かった前半生の分まで、きっと幸せにしてさしあげます。

 いつの日か某がそちらへ伺ったとき、胸を張ってご報告を申し上げます。


 四囲の襖を閉めきった閨には、初夏の薫風も、眩い陽光もいっさい届かない。

 異界とも錯覚される部屋で、重長は身じろぎもせず妻の寝顔を見守っている。

 ふたりの枕辺には、阿梅姫の母の形見、信濃国分寺の蘇民将来の御符が後生大事に飾られていた。

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