第31話 諏訪へ配流⑭ 🌼片倉重長の継室・阿梅姫






 

 寛永3年9月6日(新暦1626年10月25日)未の刻。

「なあよ」筋肉の盛り上がった二ノ腕に阿梅姫の頭をのせた重長は、くぐもった声で囁いた。「はい」物憂げに答える声は、どきんと胸が疼くほど艶っぽい。


 この可憐な小鳥が、まるで竹取翁の物語のように飛びこんで来たときは、初潮も見ぬ幼さだったが、いまでは馥郁と香る芍薬のように、爛漫の花を美しく咲かせている。女というもうひとつの性の魔性に、重長はあらためて目を瞠る思いだった。


「わしはつくづく思うのじゃが、この世に生を享けることが真の幸せであろうか。おかしな言い方じゃが、本人の意思とは無関係に、混沌と矛盾と葛藤に満ちた世間の気に、いやも応もなく放り出されることが……」


 漏れた吐息が耳朶にかかったのか、阿梅姫は細い肢体を、ぴくんと跳ねさせた。

 持って生まれた体質なのか、それとも特異な環境によって否応なく培われたものなのかは判然とせぬが、正室・綾姫の先導で重長の継室に迎え入れられてからも、阿梅姫の痛々しいほど華奢な肢体には、極端な緊張癖がついてまわっている。


 ――この愛らしい女人を蹂躙する魔物を、夫たるわしこそが退治してやる。


 大事な人を守るのは、戦場での武功にも匹敵する男子一生の仕事と言っても過言ではなかろう。そう思うと、ひしと抱き寄せる腕にもつい力が入ろうというもの。


「う、殿。息が、息ができませぬ」

「済まぬ。あまりに愛しゅうて」

「……うれしゅう存じます」


「阿梅姫、そなたはまこと、わが宝じゃ。大坂で左衛門佐さまにそなたを託されたときから、わしは、わしは、もはや、そなたの……」


 牡丹の蕾のような阿梅姫の口唇は、悩ましげに呻く重長の厚い唇に塞がれた。

 長い髪を指で梳いてやりながら、「なあよ」重長は再び同じ文言を口にした。


「わしら夫婦に子はいらぬ。ふたりで仲良く寄り添うて生きて行こうではないか」

 果たして、重長の懐にすっぽり入り込んだ阿梅姫の肢体は棒のように緊張した。


「殿。そ、それは……」その先を言わせまいと、重長は矢継ぎ早やに畳みかける。

「わが家に後継がどうしても必要というならば、すでに嫁がせた喜佐姫がいるではないか。あやつが産む子を養子に迎えれば、万事、事足りる。な、そうじゃろう」


「それで本当によろしいのでしょうか」

「なあに、心配無用じゃ。無責任に口やかましい世間というやつは、これこれこうとかたちさえ整えてやれば、あとはぐうの音も出せぬものと相場が決まっておる」


 喜佐姫は正室・綾姫のひと粒種で、側室を持たない重長にとっては、ただひとりの実子だった。年齢の近い阿梅姫とは姉妹のように育ち、昨春、主君・伊達政宗の仲介でその家臣・松前安広のもとに嫁いでからも、同じ白石城下に住み、重長夫妻とも睦まじい往来が続いている。


 身じろぎもせずに聞いていた阿梅姫は、とつぜん小刻みに震え出した。

 内から込み上げてくるものを抑えようと、きつく食いしばった唇から、


 ――う、う、う……。


 悲喜が入り混じった嗚咽が漏れ出る。


 今春、江戸屋敷で息を引き取った先妻・綾姫の進言により、20歳近くも年長の重長の継室に迎えられて4年目に入る阿梅姫にはこれまで妊娠の兆候がなかった。

 阿梅姫の苛烈な半生を承知している人たちは暗黙裡にその話題を避けていたが、


 ――一日も早く跡取りの誕生を。


 それこそがわれら家臣とその家族の未来を保障する唯一の道と、ひたすら御家の安泰を望む城内の空気は、感じやすい性質の阿梅姫を日ごとに追い詰めていた。


 そのせいか、近頃は持病の偏頭痛に加え、耳鳴り、眩暈めまいなどの原因不明の不調に重複して見舞われ、何日も床に就く状況が目に見えて増えて来ている。


 そんな妻の心情を労わるように、重長はことさらやさしい口調で語りかける。

「考えてもみよ。そなたにしてから、この世に生まれてよかった、生きているのが楽しいと心から思える半生では、決してなかったはずじゃ。な、そうであろう?」

「それは……」


「年端もいかぬ身で故郷をあとにし、修羅場の一言では言い尽くせぬ戦場の悲惨を目の当たりにした。二親に死に別れた末に、見ず知らずの当地に連れて来られた」

「その節は本当にお世話になりました」


「慮外を申すでない。さような返答は端から期待しておらぬ。有無を言わさず連れて来られたそなたは、山の形、川の流れ、風の匂い、人情、言葉、風土、考え方、感じ方、すべてが異なる土地で、だれにも言えぬ苦労に堪えて来た。であろう?」


 そう言われても、阿梅姫に首肯できるはずもない。

「殿がいてくださったおかげで、わたくしは……」


「よいよい、それ以上は申すでない」

「はい、まことに恐縮に存じます」


「そういうわしにしたところで、片倉の嫡男として生まれてこの方、自分の思いどおりに生きた記憶など、ただの一度もない。いつもお家のために行動して参った」

「さようなこと、どなたかに聞かれでもしたら……」


「いや、かまわぬ。ほかの者たちとて、みな同じことじゃ」

「どういうことでございましょうか」

 話は意外な方向に発展していきそうだ。


「人はみな、与えられた立場で懸命に生きるしかない。武家には武家の、町人には町人の、百姓には百姓の悩みや苦しみがある。思えば、生の安楽を無邪気に貪れるのは物心がつくまでのわずかな期間のみ。あとは運命に従って生きねばならぬ」

 長い歳月、溜めに溜めてきた堆積物を一気に吐き出すかのような述懐だった。


「御自らの来し方を顧みられ、『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し』と仰せの東照神君さまのお言葉どおり、呱々の声をあげた瞬間から苦難を負い込むのが宿命の人間を、無自覚に増産する無為を、わしはどうしても肯定できぬのじゃ」

「殿の仰せになりたいこと、わたくしにも少しはわかるような気がいたします」


「黄泉へ行った綾姫には申し訳ないが、喜佐姫を成したことは、片倉小十郎重長、一世一代の不覚であったと悔いておる。かわいそうに愚かな若気の至りのせいで、あの娘も人並みの辛苦を味わわずには済むまい。なんと罪深いことじゃろうか」

 阿梅姫は小鳥のようなおとがいをわずかに上下させた。


 殿が守ってくださるご当家に限って、さような杞憂はご無用にございましょう。げんに、喜佐姫さまはお幸せでいらっしゃいますし……さような社交辞令を軽々に口にしたりせぬ阿梅姫の思慮深さを、重長は深く愛し、人として尊重もしていた。


「殿の率直なお心、わたくしの胸にも清水のように染み通りましてござります」

「さすがは奥じゃ」


「なれど、いささか矛盾めいたことを申し上げますご無礼をお許しくださいませ。わたくし、これまで経験して参りましたさまざまな出来事を総括いたしましても、やっぱり生きていてよかったと、いま、あらためて実感いたしました。あの地獄絵の如き大坂において、万にひとつの確率で奇跡的に殿に巡り会えたことこそ、唯一無二にして最上のわたくしの至福。これ以上を望めば罰が当たりましょう」


 阿梅姫は紀州九度山の生まれだが、生母・芳野が信濃上田の産なので、聴く者の耳にやさしい紀州訛りより、硬質で理屈っぽい上田訛りのほうが身についている。


 性質も物言いも、生真面目で一徹。

 ぽきんと手折れば、容易に掌中に治まってしまいそうに繊麗な肢体だが、左目蓋の下の泣き黒子以外には染みひとつ見当たらぬ滑らかな肌や、蕩けそうに柔らかな肉の下に隠された芯の部分には、確固たるおのれの真髄に馴染まぬ異物をびしっと跳ね返す、並みの武士どもより、はるかに強靭で毅然とした魂魄を潜ませている。


 意外性を秘めたそれは、母娘がひそかな誇りとする出自と大いに関連があろう。

 子を産まぬせいかいつまでも初々しい継室を、重長はそのように観察していた。

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