第26話 流転の時代⑨ ❀花のようなる秀頼さま






 屠蘇や雑煮で賑やかに新年を祝った元旦の亥の刻。


 寝具から寝衣まで真新しく浄めたねやで千姫は忠刻に抱かれていた。いちいち指示せずとも「千姫組」が諸事万端を整えてくれており、好みの香が焚かれている。


 嫁して4年ともなれば、如何なる熱愛同士といえども重なる夫婦生活に錆が出て来るのがふつうだが、こと本多忠刻と千姫夫妻に限っては、いつまで経っても新婚の初々しさを不思議なほど保持していた。


「あなた、本年もよろしくお願い申し上げますね」

 厚い胸板に耳を押し当てながら、真新しい白羽二重の千姫は童女の如く甘える。


「わしこそよろしく頼む。われらふたり、ますます仲睦まじい夫婦になろうぞ」

 生真面目な忠刻の返答は、千姫のなかにちょっとした悪戯心を引き起こさせた。


「うれしゅうございます。でも、あなたのような男前なら、先々に言い寄ってくる女子が煩いほどいらっしゃるでしょう。それを思うと、わたくし妬けて参ります」

 つんと拗ねてみせると、案の定、忠刻は大いに慌てた。


「奥ともあろう方が、何たる慮外を。わしにとって想いをかけた女子は奥ひとり、その他大勢は芋の子も同然じゃ」

「殿も仰しゃられまするな。でも、それをお聞きして安堵いたしました。これからも側室を持とうなどと不埒なお考えは、ゆめゆめお持ちになってはなりませぬよ」


「とく承知しておるわ。まあ……」

 ここで忠刻はなにかを呑み込んだ。


「なんでございますか?」

「いや、なんでもない」


「うそばっかり。なにか仰りたかったくせに」

「含むものなど、なにもないと申しておろうが」


「はぁ? なんですか、含むものって。それこそ瓢箪から駒でございましょう」

「それを言うなら、藪蛇と申すべきであろう」


「まあ憎らしい。嘘から出たまことのほうが近うございましょう」

 元旦早々から、犬も食わぬ痴話げんかめいて来たようだ。


「ならば申そう」

「そうなさいませ」


「なんじゃ、そのぅ……なんと申しても、奥は御台所さまの娘じゃから……のう」

「まあ、あんなことを仰って」

「だから、いやだと申したのじゃ」


 実家の母を持ち出された千姫は、痛くもない肚を探られたように気色ばむ。


「日頃から思っておいでだったのでしょう」

「いやいや、さようなわけでは決してない」


「いいえ、瓢箪から駒が出るわけがございませぬ」

「他意はない。うっかり口から飛び出ただけじゃ」


 言わずもがなの弁解に、千姫は鬼の首でも取ったような凱歌をあげてみせる。


「ほおら、ご覧あそばせ。殿が仰るとおり、たしかにあれでございますよ、かりにも天下の将軍の座にある父上に、たったひとりの側室をもお許しにならぬ母上を、世間が如何様にあげつらっておるか、わたくしとて、とくと承知しておりますよ」


「いや、単なるうわさじゃろうて。民の囀りに戸は立てられぬゆえ、な」

「いまさら庇うてくださらずとも結構。なんですか、取って付けたように」

「そんなつもりでは……。いや、参ったな」


「まあ、よろしいでしょう。ですが、娘婿にまでさように思われておっては、里の母上があまりにもお可哀想にございます」

「相すまぬ」


「父上への過度なご執着は、人並み外れた波乱の半生に次々に肉親や親しい人たちを失った母上の心の叫びと、さように思召していただければありがたく存じます」

「む、むろんじゃ」


 こてんぱんに夫を言い負かした千姫は、ここでがらりと語調を変えて来た。


「この際、はっきり申し上げておきますが、母上は母上、わたくしはわたくしにございます。血のつながった親子とて無闇に一緒くたになさらないでくださいませ」

「よう承知しておる。そんなことより、ほれ……」


 再び損ねそうな妻の機嫌を急いで取り結ぶべく、夜目にも白い胸乳を弄び始めた夫は、さもよいことを思い付いたというように、にわかに話題の矛先を変えた。


「それよりも、奥、そなたこそ、いまでもご先夫を忘れられぬのではあるまいな」

「い、いきなり、なにを仰いますか」


「ふとした閨の仕草にな、さような気配を感じるときが、ないでもないのじゃわ」

「滅相もございませぬ。常々申し上げて参りますとおり、子どもの頃に嫁いだ先夫はわたくしにとって兄の如き存在でございます。ほかならぬ殿こそ今生で巡り会った唯一の夫であられます。どうかお信じくださいませ。でないとわたくし……」


 屠蘇気分で少し甘えてみたつもりが、思いがけぬ雲行きに発展しそうである。


 ――こういうときは、これに限る。


 懸命に無実を訴える千姫の蕾のような唇を、忠刻の分厚い唇がゆっくりと塞ぐ。

 美男美女夫婦の睦事を辛抱強く聞いているのは千姫の持仏の阿弥陀如来像だけ。

 贅を尽くした武蔵野御殿の化粧櫓を、下弦の三日月が淡々と照らし出している。


 

 夫の忠刻を初め、舅・忠政や姑・国姫も、不穏なうわさが千姫の耳に入らぬように気を遣ってくれてはいたが、芳しくない話に限ってたやすく侵入しがちなもの。


 ――花のようなる秀頼さまを 

   鬼のようなる真田が連れて 

   退きも退いたり加護島へ


 大坂の町衆は、面白おかしい俗謡を大人から子どもまで好んで謳っているとか。

 真田信繁に助けられて落城寸前の大坂城を脱出した豊臣秀頼が、最遠隔地ゆえに御公儀の仕置きが手薄になりがちな島津氏を頼り、薩摩まで逃げおおせた?……


 事の真偽はもとより、


 ――豊臣恋し、徳川憎し。


 大坂の民を煽りつづける仄暗い怨念の地熱が、千姫にはひたすら恐ろしかった。


 そういえば、夏ノ陣の終結から間なしに読売屋から発行された『大坂安部之合戦之図』と題する瓦版が飛ぶように売れたそうだが、生々しい戦闘場面や大坂城の内部を描いた絵柄のなかに、秀頼さま、おふくろさま、大蔵卿、大野修理、同信濃、将軍さま、御所さまなどの文字はあっても、千姫の名はどこにも見当たらなかったという。そんなささいなことも、千姫の頭の隅にいつまでも引っかかっていた。


 ふつふつとたぎるばかりで冷えることを知らぬ民の咆哮は、婚家を裏切り夫と姑を捨てて生き延びた、この自分ひとりに向けられているような気がしてならない。


 ――往時の追想に耽る民百姓の標的は、間違いなくこのわたくし。


 だが、罪深さを承知で自問すれば、兄のような淡い思い出しか残っていない秀頼と現在の夫、千姫のなかの軍配がいずれに上がるかは言うまでもないことである。


 ――万一、生きていたとしても、いま頃になって現われてもらっても困る。


 正直なところ、それが千姫の本音だった。



 兄のような……といえば、ふとしたときに千姫の胸を掠めて行くのは、伏見での穏やかな時間を共に過ごした片倉小十郎重長の、少し翳のある端整な面影だった。


 ――やさしい目で見つめてくださったあの方はどうしておられるだろう。


 夏ノ陣では敵方の真田信繁に匹敵する活躍ぶりを見せたという小十郎は、信繁の娘の阿梅姫を匿っているという話も耳にする。嘘か誠か確かめる術もないが、どうか両者とも幸せであってほしい。少なくとも大きな不幸とは無縁であってほしい。


 一方、千姫にはもうひとつ、別の気懸りがあった。


 幼い頃は実の妹のように可愛がってもらい、長じてのちは現将軍・秀忠の代理として大坂城を訪ねてくれ、ひとつ下の秀頼とも旧来の親友同士のように語り合ってくれた叔父の松平忠輝が、伊勢朝熊から飛騨高山へ移されたという伝聞だった。


 ――夏ノ陣から5年を経てなお、恩赦ではなく転地とは……。


 父上は叔父さまの身の上を如何なさるおつもりだろう。

 馴染みの薄い実父の心情は、まったく見当もつかない。


 これまた真偽のほどは不明だが、離縁した五六八姫がひそかに子を産んだとか。

 もしそれが真実ならば、万一、ことが露見すれば大変な事態が発生するだろう。


 ――大坂ノ陣の愁嘆場は、まだ終わっていない。


 ひとたび人の心に巣食ったよこしまなものは、そう易々とは変容できないのだ。


 たとえ傍目には幸福の絶頂にあるように映ったとしても、何の憂いもなく心晴れ晴れという日は、千姫には、ただの1日も、ほんの一刻も許されていなかった。


 

 そんな千姫のもとに江戸からの便りがもたらされたのは5月中旬のことだった。


 ――徳川和子(のちの東福門院)、後水尾天皇の女御にょうごとして御入内ごじゅだい


 秀忠とお江ノ方夫妻の5女で、千姫にとっては10歳ちがいの実妹に当たる和子の縁談は、大御所家康の遺言として、水面下で粘り強い交渉がつづけられていた。


 その途中で、後水尾天皇のご寵愛がことのほか篤いという側室・御与津およつノ局がひそかに女児を出産していたという不祥事が発覚したが、秀忠の手配によって無事に治まり、5月8日、老中酒井雅楽頭忠世、京都所司代板倉周防守ら大名20人、母代わりの阿茶局らに付き添われた絢爛豪華な花嫁行列が江戸城を出立した。


 東海道を西へ上った行列は、同月28日、二条城へ入った。

 近隣の諸大名と同様、播州姫路を治める本多家でも、当主の忠政と、竜野城主をつとめる2男・政朝が同城の警備に当たった。


 6月18日、初夏の日差しのなか、ぎっしりと詰め掛けた沿道の見物人が目も開けていられぬほど輝く金銀梨地高蒔絵の牛車に乗った和子は、九条関白幸家を初めとする錚々たる公卿や殿上人に手堅く守られながら、無事に内裏に入ったという。


 ――姉として思うだに苦難の多き道とは存じまするが、どうか辛抱強く堪えられますよう。筆舌に尽くせぬ至難を乗り越えて、今日まで力強く歩んで来られた母上のように、ご自身の手で確固たる幸せを、きっと掌中になさってくださいませ。


 往時の自分同様、政略の具とされた14歳の妹に、千姫は播州姫路から声援を送ったが、東照大権現(家康)さま以来の念願を遂げ、天皇の縁戚に加わった徳川の威信を誇示する花嫁行列の道々で、近郷の村落から駆り出された助郷の百姓どもが汗と埃にまみれて立ち働かされていた事実にまではついに思いが及ばなかった。

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