第14話 大坂夏ノ陣⑬ 🌸松平忠輝、勘当さる





 慶長20年(1615)が7月13日に改元された元和元年9月5日酉の刻。


 釣瓶落としの秋の夕暮れ。

 城郭自体も昨年完成したばかりで、ようやく枯山水の全容が整いつつある越後高田城の庭園に集く虫の音を聴きながら、22歳の五六八姫いろはひめは24歳の夫・松平忠輝のかたわらで、駿府城の大御所から遣わされた松平忠左衛門勝隆の切り口上に首を垂れていた。


 勝隆は家康の重臣・松平重勝の5男だが、関ヶ原合戦の序盤となった会津征伐で伏見城を死守した武勇譚で知られる母方の伯父、陸奥磐城平藩主・鳥居元忠に養育されていたが、大坂冬ノ陣の前年から家康の直臣として召し出されていた。


 忠輝より3歳年長。

 忠義一辺倒の養父・元忠の訓育よろしく、堅い上にも物堅い侍だった。


 ――松平上総介忠輝まつだいらかずさのすけただてる、こたびの戦において不届きのこと多々あり。よって勘当を申し渡す。


 並み居る先輩をさしおき、かような重責に抜擢くださった大御所さまのご期待にお応えできるよう、万にひとつの粗漏もなく粛々とおつとめを果たさねばならぬ。


 内心の力みが痛々しいまでに露わな、緊張のあまりいまにも裏返りそうな甲高い音声が朗々と発せられると、隣室に控えている侍女・茜音の息を呑む気配がした。


 全身の感覚を鋭く尖らせていた五六八姫は、思わず舌打ちしたくなった。


 ――かような場面で侍女風情がおのれの気配を悟らせるとは!


 苦々しさと口惜しさに、持ち前の癇癪玉が破裂寸前である。

 一連のなりゆきからして、何らかのお沙汰は覚悟していた。


 ――だが、まさか、いきなり勘当とは! 


 夫は、それを援けたわたくしは、それほどの重罰に値する罪障を働いたのか。

 快晴の青空から巌が降ってきたような厳罰にどうしても納得がいかぬ五六八姫は、無意識裡に最悪の事態を招いた責任転嫁の相手を探していたのかもしれない。


 折々の難関を、夫婦で力を合わせて乗り越えて来た。

 それもこれも、すべては徳川家の安泰のためだった。

 なのに、なぜこんな目に遭わされねばならないのか。


 それに、なぜ選りによってわが家だけが勘当なのか。

 姿なき敵をつかまえ、思うさま問い詰めてやりたい。


 うつむき、拳を握りしめながら、たぎり立つ忿怒に蹂躙された五六八姫の脳裡に、わが事ながら激動と名付けたいほど波乱の来し方が、ほろ苦く去来してゆく。


 

 文禄3年(1594)6月16日。

 太閤秀吉が国外進出への野望を発進させた最初の朝鮮出兵の翌年、陸奥岩出山藩主・伊達政宗と正室・愛姫めごひめの長女として京聚楽第の伊達屋敷に生まれた五六八姫は、伏見から大坂、江戸へ、すぐ伏見にもどり、再び江戸へと、10歳までに5度の転居を余儀なくされて育った。


 ちなみに、朝鮮出兵の招集に際し、はるばる国許から3,000人の将兵を引き連れて上洛した傾奇かぶき好みの父・政宗は、批評眼の肥えた京雀の度肝を抜く美麗な武具で陸奥の行軍を飾り立て、「天晴れ伊達者だてしゃ」として喝采を浴びた。

 

 先頭の幟30本は、紺地に金の日ノ丸をあざやかに抜き出してある。

 粒よりの偉丈夫ばかりを選りすぐった幟持ちには、背と腹に金ノ星を縫い付けた六糸緞むりょう(唐の繻子)の装束に、黒漆の具足を履かせる。

 同じ装束の足軽どもには櫂棒形かいぼうけいの朱塗りの鞘の脇指をかせ、3尺ほどの高さの金色の尖笠を被らせる。

 幟のうしろを威風堂々と闊歩する毛色も華麗な30頭の馬は、それぞれ豹や虎、熊の皮や孔雀の尾で、あざといまでに賑々しく飾り立て、黒母衣くろほろに金ノ半月を付けた騎手は、黄金熨のし付きの太刀を帯びている……。


 後年まで語り継がれる伊達隊の艶やかさはそんな具合だった。


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