第12話 大坂夏ノ陣⑪ ❀恋のときめき





 和やかな空気に釣られたかのように、若侍は伏せていた顔をゆっくりと上げた。

 艶やかな葡萄色の眸に見詰められたとき、千姫は烈しく胸が騒めくのを感じた。


 ――やや。ときならぬ鼓動は如何いたしたのじゃ。いかぬ、いかぬ、つい先ごろ未亡人になったばかりの身ではないか。たとえほんの一瞬とはいえ、美々しい殿方に心惹かれるとは、なんとはしたない。


 無節操な自分を戒めてみたが、桑名への途中で滞留した二条城で阿茶局が誂えてくれた華麗な帯の下の高鳴りは、収まるどころかますます激しくなる一方だった。


 ――殿、申し訳ございませぬ。


 目を瞑って秀頼に詫びようとした。


 だが、あろうことか、早くも面影が判然とせぬ。

 わずか3月足らずでそんなことがあるだろうか。


 もう一度、心を澄ませて真剣に思い描こうとしたが、男子としては色白でふくよかなお顔の輪郭はおおまかに思い浮かんだものの、目鼻立ちはやはり思い出せぬ。


 ――なんと薄情なわたくし。


 おのれの浅ましさに鼻白む一方、低い囁きも聞こえてくる。


 ――果たして、われらふたりは本当の夫婦であっただろうか。


 殿は大方の時間を母君と過ごされていた。

 7歳でお輿入れして以来、殿や姑の淀ノ方さまとは離れた居室を与えられていたわたくしは、ねやにお呼びいただく機会もごく稀で、城内外から期待されるお世継ぎの誕生など望むべくもなかった。


 いまさらながら恨みがましい気持ちにも駆られるが、冷静に振り返ってみると、そういう自身も秀頼に、夫というより兄に近い感情を抱いていたような気がする。


 言い訳がましいかもしれないが、


 ――妹が兄の面立ちの細部を覚えていなくても当然ではないのか。


 ついでに申し上げてしまえば、あれほどまでに溺愛なさっていたご愛息と一緒の最期を迎えられたお姑上さまは、案外、天下一の諸果報者もろがほうしゃであられたのではなかろうか。


 ――確信をもって言える。きっと、そうにちがいない。


 千々な思いに乱れる千姫を真正面から見据えた忠刻が、矛盾も葛藤も支離滅裂な思いまで、あるがままの自分をそっくり包み込んでくれるような口調で宣言した。


「僭越ながら、亡き右府さまに替わり、それがしが千姫さまをお守りいたします」

「どうぞよしなにお願いいたします」


 千姫は恋の罠に落ちた自分を知った。

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