第11話 大坂夏ノ陣⑩ ❀ 本多忠刻との出会い




 

 同年8月1日巳の刻。


 心身ともに憔悴しきった千姫一行は、伊勢桑名城の奥御殿に旅装を解いていた。

 城主・本多忠政の父・忠勝は、元亀3年の一言坂ひとことざかの戦での天晴れな殿しんがりぶりを、


 ――家康に 過ぎたるものが ふたつあり とうかしらに 本多平八。


 敵方の小杉左近から落書をもって賞賛された逸話で有名な、筋金入りの剛の者。

 忠政の正室・国姫は千姫と同じ家康の孫であり、また織田信長の孫でもあった。


 いまなお眉をひそめて語られる事件は、天正7年(1579)年9月に起きた。


 長女・登久姫に次ぎ次女・国姫を出産したあとの心身の不調に悩んでいた五徳姫(織田信長の長女)は、姑・築山どの(家康の正室)と夫・信康(家康の長男)の仲睦まじさを妬み、「母子打ち揃って甲斐武田に通じる謀叛の嫌疑あり」と讒訴ざんそを認めた書簡を、ひそかに里の父・信長に送った。


 憤激した信長の命を受けた家康は、妻・築山どのを斬殺したうえ、嫡男・信康を切腹に追い込まねばならなくなった。産後の妄想が思いもよらぬ結果を招いたことを激しく悔いた五徳姫が、袂を絞るほど咽び泣きながら生家に引き取られて行ったあと、遺された悲運の姉妹は、祖父・家康の手によって育てられた。


 一方、忠政の姉・小松姫は、家康の養女として上野沼田藩主・真田信之に嫁いでいる。このように、千姫にとっては幾重にも所縁のある、慕わしい本多家だった。


「よくお越しくださいました。さぞお辛い目に遭われたことでございましょう」


 ふたまわり近く年長でふっくらした身体つきの国姫は、おっとり迎えてくれた。


 ――わたくしなどよりも、よほど不幸な星のもとにお生まれになった方なのに、そのことをいささかも気取らせず、明るく聡明な双眸の持ち主でいらっしゃる。


 千姫はひと目で従姉・国姫に親しみを感じた。


「折悪しく主の忠政は江戸表へ出府中でございますが、及ばずながら、息子の忠刻ただときが千姫さまのお世話をつとめさせていただきます。どうか何なりとお申し付けくださいませ」


 慎ましやかな挨拶と同時に、風雅な花鳥風月を散らした襖が音もなく開いた。

 背の広さが際立つ若武者が敷居間近に手をつかえ、懇ろな口上を述べ立てる。


「千姫さまにおかれましてはご無事なご着到、まことに祝着至極に存じあげます」


 やわらかな低音が耳朶に甘く溶け込む。

 千姫は狼狽えて若侍から目を逸らした。


「先駆けてご帰着の大御所さまがお待ちかねの駿府城への道中におかれましては、当桑名から三河湾白須賀までの海路を、僭越ながらわが本多海軍がお供仕ります」

「お世話をおかけいたします」

「初めてお目にかかった姫さまにご無礼とは存じますが、あの、そのぅですね……文字どおり大船に乗られたご気分で、すべてをそれがしにお任せくださいませ」


 精いっぱいの励ましに口籠る若侍の初心がおかしくて、千姫はふふふと笑った。

 思えば3か月前のあの日、夫と姑の助命嘆願の使者として、身ひとつで大坂城を脱け出してより、糊で固めたように強張りっぱなしだった頬が、いま初めて柔らかに弛んだような気がする。


 お付きの松坂局と早尾、背後に小さく控えた刑部卿局も赤く目を潤ませている。


 助けを求めて怒涛のごとく流れ込んだ大御所の御本陣で事足りぬと知ったとき、自ら将軍の陣に出向くと言い張って聞かない千姫を、年嵩の自分を筆頭にみんなで言葉を尽くして引き留めた。その結果、取り返しのつかぬ事態を招いてしまった。


 騙したと誹られても当然な状況なのに、千姫は何ひとつ責めようとしなかった。いっそ口を極めて罵倒されたほうが楽だったが、年寄りへの気遣いがかえって心苦しい。日夜責め立てられる罪の意識が、善良な老姥を無惨にやつれさせていた。


 落城後の家族の保護を餌にして、豊臣側近の大野修理治長を抱き込み、とにかく千姫を大坂城から脱出させる。何としても婚家を救おうとして義に逸る純な千姫の一途な思いは、大御所と将軍の「二頭仕置き」を巧みに使い分けて、のらりくらりと交わしておき、ただひたすら、ほとぼりが冷めるのを待つ。


 最初から結末が定まった台本が用意されていた事実をいまさら知らされたとて、老いの小柄をさらに縮めて恐縮する刑部卿局の慰めにも、結果的に裏切りに至ったうしろめたさに二六時中責め立てられている千姫の援けにもなるはずがなかった。

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