第10話 大坂夏ノ陣⑨ ❀裏切られた千姫の願い


 

 二刻後。

 湯あみで温まった身体を真新しい羽二重で包んだ千姫は夢の中で号泣していた。


 ――殿、姑上さま。どうかしばしお待ちくださいませ。わたくしも一緒にお連れくださいませ。わたくしひとり置いて行かないで。後生ですから、どうかお願い。


 だが、太った淀ノ方を抱きかかえた秀頼は、ずんずん足早に遠ざかって行く。


 ――どうしても行かねばならぬのですね。でも、大丈夫。おふたりともわたくしが助けて差し上げます。それまでどうかご無事でいらしてくださいませ。お願い。きっとですよ。


 千姫の必死な呼びかけが届かないのか、金糸銀糸色糸で煌びやかに着飾った母子は、一度もこちらを振り返らず、立ちこめる霧にすうっと吸い込まれてしまった。


 ――いやじゃあ、いやじゃあ。行ってはいやじゃあ。


 自分の叫び声で飛び起きた千姫は、全身から滴るような汗を掻いていた。


「不吉な、生々しい悪夢を見ました。なにかよくない出来事が起きたに違いありませぬ。いますぐお祖父さまのもとに、将軍さまへの遣いの首尾を訊ねに参ります」


 昂ぶった口調で言い募る千姫を、3人の侍女が口を揃えて引き止めにかかる。


「こんな深更にお訪ねになっては、お歳を召された大御所さまにご迷惑でございましょう」

「夜はだれしも不安になるもの。朝になったら吉報が飛びこんで参りますよ」

「どうかお心持ちを安らかに、いまはひたすらお身体をお労いくださいますよう」


 戦場の陣とは思えぬほど豪奢でやわらかな夜具の上に正座し、腫れ上がった目蓋からほろほろと涙を溢れさせていた千姫は、自分を誠実に守ってくれる3女の懸命な説得に、頑是ない少女のようにこくんと頷くと、夜目にも華奢な肢体をふたたび静かに横たえた。


 波乱の星のもとに生まれた千姫生来の、過ぎるほど素直な気質が哀れでならず、寝衣の袖を口許に押し当てた3人の女たちは、声を殺し、さめざめと泣き合った。

 

 

 5月9日丑の刻。

 早暁から吉報を待ち侘びていた千姫にもたらされたのは無情極まる通告だった。


「まことにご無念な仕儀にはございますが、昨日の正午過ぎ、大坂城山里曲輪の唐物倉からものぐらにおいて、秀頼さまと淀ノ方さまは共に手を携えられ、ご立派なご生害しょうがいを遂げられましたそうにござります」

「ええっ、まさか!!!!」

「大野修理長治どの、大蔵卿局どの、饗庭局どのもお供を仕ったと聞き及びます」


 文言を選んだ阿茶局の報告は、しかし、千姫にとって閻魔大王の口説になった。


「うそつき! お祖父さまのうそつき! あんなに約束したではありませぬか!」


 憤激のあまり阿茶局に拳を振り上げかけた千姫を、


 ――姫さま!


 すんでのところで松坂局が抱き止めた。


「僭越ながら、千姫さまに申し上げます。姫さまが大御所さまをお責めになるのはいささか筋違いかと存じます。大御所さま自らお言葉を尽くされての豊家のご助命嘆願を、ついにご許可くださらなかったのは、ほかならぬ将軍さまであられます」

「父上が?」

「お恨みになるのならば、大御所さまではなく、将軍さまをお恨みなさりませ」


 とうに還暦を過ぎている阿茶局は、一歩も引かぬ構えで千姫に対峙した。


 ――ぎりっ!


 千姫の奥歯を鳴らす音が、しわぶきひとつ立たない陣内の静寂に響き渡った。

 牡丹の蕾のように純な唇から出たとは思えぬ、怨念の籠もった歯噛みだった。

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