彷徨う後悔
帰りの車の中で吉岡が「
「綾野が、いつ殴りに行っても抑えられるように構えてたのに」
「アンタは何を言ってるの。そんな楽しんでるみたいに」
実和が吉岡の言葉を真に受け、眉根を寄せて声を上げる。
「殴れないっすよ、あんなでかい
「ねえ、このアホ、酒の飲み過ぎで頭おかしいの」
実和の乱暴な物言いに、車の中に笑いがもれた。
どんなに悲しみの底で泣き崩れていても、ふとしたことで笑えるのは不思議だ。
母が亡くなった時もそうだった。
母の死を受け入れることもできず、まだ温かさが残る遺体に「起きてよ、ねえ、起きて」とすがって泣いた。なのにいつものように腹は減り、喉も乾く。
父と祖母と3人で、無言で食事をしていると、テレビで芸人たちがコントを始めた。気がつけば3人とも笑みを浮かべていた。
心は悲しみに浸っているのに、笑えていることが不思議だった。
実和が吉岡を呼んだのは、綾野のためばかりではないのだろう。そして吉岡もそれをわかっているのだろう。
駅近くのショッピングセンターが見えると、実和が車を止めるように言う。
「ちょっと買い出しに行ってくるから待ってて。時間大丈夫でしょ。そこの喫茶店で可愛い後輩たちにお茶でもおごりな」
一方的に言い捨て車を降りる実和に「了解」と吉岡が苦笑する。
喫茶店では吉岡が綾野とオレを交互に眺めて、「こういうのもいいね」とにやける。
戸惑い気味に綾野と顔を見合わせると、吉岡が「別に他意はないよ」と笑う。
「卒業以来、同窓会も出てないし、同級生とはあまり会ってないから、たまにはいいなと思ってさ… オレ、大学行かなかったから」
「オレも… オレも就職組です」
綾野が
学校では綾野は頼りがいのある大人に見えたが、吉岡の前では幼く見える。当たり前のことだが、それが妙におかしい。
「そう言えば、まだ5月の連休は実質閉寮にしてるの?」
吉岡の問いに、綾野がオレをチラッと見て「はい」と答える。
「すごいなあ。まだ続いているのか」
「何なんですか? その伝統。いっそのこと正式に閉寮にしてくれればいいのに」
自分だけその伝統とやらを知らされずに、寮に居残ったことが思い出され、思わず不満げに言った。
「どうした、いきなり」
「あ、気にしないでください。こいつ去年、知らされないで帰らなかったから」
綾野が口を出すと、吉岡が見透かすようにオレを凝視する。
「ふうん… なんかワケありだったんだろ」
「…まあ… 親父とちょっとあって」
吉岡は、ブラックコーヒーを一口飲んで、ゆっくり息を吐く。
「オレが1年か2年の時だったかな、サネカズさんの娘さんが亡くなったんだ… 自殺で。会社に慣れないって言ってた娘さんを、サネカズさんが叱咤激励してたらしい… でも多分、うつ病だったんだろうな」
顔が強張っていくのを感じた。
綾野を見ると、同じように顔から表情が消えている。
「サネカズさん、声を殺して泣いててさ。一人にして思いっきり泣ける時間をあげようって先輩が提案して、皆で寮を空けたのさ。それが始まり…」
吉岡がまたコーヒーを一口すすると、「ああ、でも…」と思い出したように笑う。
「オレ、高3の春に親父が急死してさ。その時の連休はサネカズさんに、七瀬は用心棒に残れって言われて… 無理してるのがわかったんだろ。『この一か月ひどい顔してる。ここで思いっきり泣きな』って… 確かに泣いてなかったんだよね。泣いている母親と
吉岡は涼し気な瞳でオレを見て、優しく微笑む。
「だから、居残りはオレが最初、な」
その悠然とした笑顔に引き込まれるように、オレの唇も自然とほころんだ。
「オレ、サネカズさん傷つけた」
隣で沈黙していた綾野が、思い詰めたように口を開く。
「オレ、蒼葉の親のこと散々悪く言ってたけど、サネカズさんは同じ立場だったんだ…」
綾野は目を伏せ、肩を落とす。
「別に気にしなくていいよ」
吉岡が、笑みを浮かべたまま、事もなげに返す。
「綾野は蒼葉君の痛みを感じて言ったことだろ。サネカズさんは蒼葉君の両親に自分と同じ痛みを重ねた。綾野もサネカズさんもそれぞれ正しい。立場が変われば正しいの意味合いも変わるさ」
吉岡が白い歯を見せ、澄んだ笑顔を綾野に向けた。
その笑顔に癒されたように、綾野はホッと眉から力が抜け、柔らかな表情を見せる。
突然、「あ、そうだ」と、吉岡が内ポケットから名刺を1枚出してテーブルの上に置いた。
「綾野、
「え、ホストクラブに?」
オレの口が、勝手に動いていた。
吉岡が驚いた顔でオレを見る。
「ホストクラブって、そう見えてたの?」
そうだった… ホストクラブはオレの勝手な想像だった。慌てて「すみません」と頭を下げた。
「まいったな」と、吉岡が苦笑する。
「まあ、似たようなもんだけど、うちは老若男女ウェルカムなバーだよ」
見るとブラウンのカードに、『BAR 7R セブンアール』とあった。
綾野が嬉しそうに受け取る。
「オレには? もらえないんですか」
「そりゃ、ホストクラブだと思われてたしね」
吉岡がおどけたように笑う。
「えー、最初から1枚しか出してなかったし、オレにもくださいよ」
「綾野はあと2年だろ。君はまだまだ先だし」
「先じゃないですよ。4年、たった4年」
「お前、必死過ぎ」
綾野が、オレの肩を突いて笑う。
「2年は頑張れるけど、4年先まで店があるかどうかわからないからね」
吉岡は、冗談とも本気ともつかない口調で、笑いながらオレにもカードをくれた。
「楽しそうなとこ悪いけど」
実和が、両手いっぱいに買い物袋をぶら下げて立っていた。
「時間ないからとっとと寮まで戻って。ケンは駅まで近いから歩いて行けるでしょ」
「さんざん待たせて勝手だなあ」
吉岡が呆れ顔で苦笑する。
「亮一の親御さんがもう着いちゃって、寮で待ってるのよ」
「えっ! なんで!」
思わず出た声は、上擦っていた。
「亮一が悪いのよ。『帰れない』と言うだけで事情を話さないから、心配してお母さんから電話があったの。そしたら車で迎えに行くって言ってね」
「サネカズさん、すげぇ余計な事する」
ため息交じりに顔をゆがめる。
以前のオレなら「ガキ扱いかよ」と、不機嫌を滲ませるところだが、吉岡の包み込むような優しい視線のせいだろうか、素直にガキを受け入れ、気が付けば笑っていた。
「あ、じゃあオレ、駅まで歩いて行くから、もう行ってください」
綾野が立ち上がると、吉岡が「送るよ」と言う。
「どうせ帰り道だ。一人でドライブもつまらないし、君のアパートまで送る」
「え… でも…」
吉岡は席を立つと、戸惑う綾野の肩をポンと叩いた。
「さて、皆で亮一の家族を見に行こう」
陽気に笑って、テーブルにある伝票を手に取ると、軽やかな足取りで会計へと向かった。
寮に戻ると、父と瑠美が待っていた。瑠美は腕に亮二を抱いている。
「こんな小さな赤ちゃん初めて見た」
綾野が嬉しそうに、瑠美からレクチャーされながら亮二を抱く。
「ちょっと落とすんじゃないよ」
実和がその様子を、ハラハラと心配そうに見ていた。
「赤ちゃんて不思議なパワーがありますよね。エネルギーをもらえるっていうか… 僕にも抱かせてください」
吉岡が瑠美に微笑みかけると、瑠美も笑って頷く。
「吉岡さん、間違って亮一のお母さん抱かないでくださいよ」
綾野がいじると、吉岡が「ばーか」と軽く返してニヤッと笑う。
「お父さんいなかったらわからないけど、さすがに
「ねえ」と瑠美も応じると、その場が笑いに包まれる。
吉岡は、瑠美から亮二を受け取り腕に抱くと、可愛いと漏らした。
亮二に顔を近づけ、愛おし気に見つめる瞳が優しい。
「元気に大きくなれ… 絶対、元気に…大きくなれよ」
そう小さく呟く吉岡の目が、少し潤んでいるような気がした。
亮二を瑠美に返して、目線を逸らすと何度か目を瞬かせる。
「じゃあ、暗くなる前にそろそろ帰ろうか」と柔らかく微笑んだ。
「ちょっと待って」
実和が、先ほどショッピングセンターで買った食料品を、そのまま綾野に手渡す。
「何… これ…」
「持って帰りなさい。どうせ月末になったらお金が無くなって、ひもじい思いをするんだから」
「でも、オレ…」
「もらっとけよ。君は『ありがとう』だけでいい」
吉岡が優しい声で口を挟む。
綾野が実和に向かって深々と頭を下げた。
「今までお世話になりました。ありがとうございました」
「何よ、急にかしこまって」
実和の目はすでに潤んでいる。
「ケンが、そんならしくないことしたら、明日は雪がふるよ… もう」
実和の声が震えている。
「一応、サネカズさんに挨拶しとかないと、ずっと恨まれそうだから」
綾野がニヤつきながら吉岡とオレを見た。
「もう憎まれ口ばっかり… でもね…」
実和が、泣くのをこらえるように、深く息を吸って吐いた。
「でも… 死ぬな。絶対死ぬな。どんな辛いことがあっても生きろ… 逃げてもいいから… ね」
実和は吉岡が差し出したハンカチに、顔をうずめて声を殺した。
「オレは大丈夫だから」
綾野が、実和の肩を抱いて目を赤くする。
「これが今生の別れじゃあるまいし。オレがまたすぐに会いに来させるよ」
吉岡が軽い口調で言うと、実和が顔を上げた。
「本当だよ、七瀬。何かあったら、ケンのこと、助けてあげてよ」
そう言うと、ハンカチで思いきり鼻をかむ。
「うわぁ…」と、吉岡が大げさに顔をゆがめる。
「それサネカズさんにあげる」
「あら、最初からくれたもんだと思ってたわ」
実和が鼻を真っ赤にして明るく笑った。
あれから何回、春を迎えたことだろう。
蒼葉はもういないのに、毎年、沈丁花の香る季節になると、薄茶色の愛くるしい瞳で笑う蒼葉が、今にも「亮一君」と言って目の前に現れそうな気がする。
「僕を忘れないで…」と言っているように。
忘れるわけがない。
忘れられるものか…
忘れて欲しくないなら、なぜ死んだ。
あと2年、たった2年我慢すれば自由に生きられたのに。
もう少し息を潜めて耐えていれば、少なくとも息苦しくはない世界が待っていたのに。
勝手に逝ってしまった蒼葉への尽きない恨み言が頭を巡る。
そして、どこかで「違う」と声が聞こえる。
「お前のせいだ」
そうだ、オレのせいだ。
「あのね、僕は… 僕、男の子しか好きになれないんだ」
蒼葉はオレにそう告白した。
あの時、どうしてオレは何も言わなかったのだろう。
オレもお前と同じなんだと。
「オレもお前と同じ、男しか愛せない人間なんだ。黙っていて悪かった」
そう手紙に書いては出そうとしたが、結局は出せなかった。
心のどこかで、そんなことを打ち明ける仲じゃないと言い訳をして。
オレもお前と同じだと伝えてさえいれば、あいつは死ななかったかも知れないのに。
いや、死ななかったはずだ。
オレの体にまとわりついた臆病が、お前を殺した。
おどおどと周りを気にして、怯えながら生きていたのは、お前じゃない。オレのほうだ。
何もかもが遅い。
取返しの付かない後悔の念で、がんじがらめになって一歩も前に進めない。
それでもこの季節になると、オレは沈丁花の香りを求めてさまよう。
むせ返るような甘い香りに包まれると、蒼葉、お前に会えるような気がして。
お前の息遣いを感じるような気がして。
美しい瞳で変わらず優しく笑ってくれるような気がして。
終わり
最後まで読んでいただきありがとうございました。
心から感謝いたします。
沈丁花 ひろり @Hirori-T
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