後悔と懺悔

 翌日、寮の前に一台の車が止まっていた。

 傍らに背の高い男が立っている。

「あの人? 卒業生って」

「そうだよ、亮一が余計な事するから」

 実和は外に出ると男に声を掛け、何か話している。

 蒼葉のことを、すぐに綾野あやのつよしに連絡したことを実和は怒っていた。


「なんで伝えるの。ケンは蒼葉のお父さんのこと、恨んでるんだから何言うかわからないでしょ。血の気多いんだから、手出したりしたららどうするの」

 確かに、蒼葉の訃報を伝えると綾野は絶句した後、「許さねえ、あの親父… ぶん殴ってやる」と怒りをぶちまけていた。

「蒼葉くんのお母さんは、こっちの関係者には誰にも言うつもりはなかったと言ってたでしょ。ある程度時間を置いてから皆に伝えるつもりだったのに… 気持ちはわかるけど、一番言っちゃダメな人でしょ」

「そんなわけにいくかよ」と吐き捨てたが、もし綾野が蒼葉の父親に、何か暴言ばかりか暴力まで振るってしまったらと考えると、軽はずみなことをしたと思った。

 一方で、蒼葉のことを父親から引き離そうと、奔走していた綾野にこそ伝えるべきだとも思う。


 実和は、綾野が不穏なことを仕出かさないか心配して、その男を呼んだのだ。

 男と話していた実和が振り返り「亮一、行くよ」と、手招きしていた。

 外に出ると、男は「よう」と片手を上げる。

「君が笹原ささはら亮一りょういち君か。実和さんに運転手で呼ばれた卒業生の吉岡よしおか七瀬ななせ。よろしく」

 爽やかな笑顔を見せる吉岡は、濃いめのブラウンに髪を染めた、少し気取った感じの男だ。

「さて、そろそろ血の気の多いほうをピックアップして行こうか」

 吉岡は助手席と後部席のドアをスマートに開けた。


「それで、あなたはうまくやってるの?」

 車が走り出すなり助手席に座った実和が、母親のように吉岡に話しかける。

「まあ、ぼちぼちね。サネカズさん、今度お店に来てよ。サービスするよ」

「行かないわよ。それより『みわさん』だから。もう、あんた達が変なあだ名付けるからみんな代々引き継いじゃって、全く迷惑な話よ」

 吉岡は豪快に笑う。

 どこかの店に勤務しているなら、吉岡の持っている多少キザな雰囲気も納得できる。整った顔立ちからするとホストだろうかと勝手に想像する。


 駅では、綾野が鋭い目つきで立っていた。

 無言のまま車に乗り込むと、「元気だった?」と言う実和に軽く会釈しただけで押し黙ったままだ。

 無言の中に、あだちにいくような、静かな怒りがみなぎっているように見える。


 蒼葉の家は街中から少し離れた新興住宅地にあった。建てられてそれほど経ってない、瀟洒しょうしゃな雰囲気の二階建てである。

 中から出てきた女性は、化粧っけもなく憔悴しょうすいしきった様子から、一目で蒼葉の母親だとわかった。一瞬目が合ったが、彼女はほつれた髪を手で撫で上げ深々と頭を下げ、ゆっくりと顔を上げた時には、溢れる涙を手で拭ってまたオレを見た。


 そして、招き入れられたリビングには逃れようのない現実があった。

 小さな祭壇の上には、白いカバーを掛けられた骨壺と、目に焼き付いている蒼葉のこぼれるような笑顔。

 実和がたまらず「蒼葉くん… どうして…」と泣き崩れると、蒼葉の母親も両手で顔を覆う。

 祭壇の横には体格のいい男が座っていた。

「父さんは、楽しくて優しくて大好きだよ」

 蒼葉がそう言っていた。


 華奢きゃしゃな蒼葉とはあまり似ていない、骨太でがたいのいい父親が、

「わざわざ来てくれてありがとうございます」と、声を震わせながら、床にこすりつけるように頭を下げる。

「どうぞ… どうぞ手を合わせてやってください… 蒼葉のために… どうか… 蒼葉が迷わず天国に行けるように… どうか… どうか…」

 それだけ言うと悲痛な声を上げて慟哭した。


 先に焼香を終え振り向いた綾野の真っ赤な目からは、来た時のような怒りは消え、悲しみと無念の色がにじんでいた。

 こんなに蒼葉のことを大事に思っている者たちを置き去りにしてなぜ死んだ。

 死ぬようなどんな辛いことがあったの?

 死ぬほど我慢できないなら、ケンさんと一緒になぜ逃げなかったの?

 一瞬たりともオレの顔は出てこなかったの?

 オレにはお前を踏みとどまらせる力がなかったのか…

 そんな問いかけが頭の中をぐるぐる巡り空しさだけを残していく。

 子犬のような少し怯えた瞳で、ためらいがちにほほ笑んだ蒼葉。

 時には「あはは」と声を出して無垢な笑みを満面に溢れさせた蒼葉。

 もう二度とあの笑顔に会えないという事実を前に、ただ涙を流すことしかできなかった。



 蒼葉の家を出ると、来た時には感じなかった甘い香りが漂ってきた。

「見事な沈丁花の生垣ね」

 実和がため息を漏らす。

 見ると可愛い手毬のような白い花がそこここに咲いている。

「来たときは全然気づかなかったね。素敵な香りだ」

 そう言って、吉岡が花に顔を近づける。


 その時、「あの…」と消え入りそうな小さな声がした。

 振り返ると、そこに蒼葉の母が立っていた。

「ごめんなさい。あまりに綺麗な生垣で…」

 実和が慌てて頭を下げる。

「いえ…これを見てもらえって主人が」と言ってメモのような紙を出した。

『家族から笑顔を奪う』

『家族を不幸にする』

『消えろ』

『みんな大好き』

『みんな大事』

 そんな言葉がランダムに殴り書きしてある。蒼葉の丸っこい癖のある丁寧な文字とはかけ離れた乱暴な筆致だ。

 同じ筆致でその文字もあった。

『戻りてー』

『戻りてー』

『戻りてー』

 と、あちこちに書かれていた。

 綾野が「バカヤロー…」と呟いて嗚咽する。

「私たちのせいなんです… 私たちがあの子を追い詰めた… あの子を… 殺したも同じ…」

 蒼葉の母が言葉を詰まらせ再び涙を流す。

「いいえ、いいえ。そんなに自分を責めないでください。衝動的に逝ってしまったんです。きっと蒼葉君も今頃とてもとても後悔してるはず。大丈夫… きっとすぐにでも生まれ変わって幸せな人生を送るから… ね。そう信じて祈りましょう」

 実和は彼女の背中を包むようにして撫でながら、努めて明るく言った。


「すみません、ありがとうございます」

 深々と頭を下げた蒼葉の母の顔に、少し笑みが戻る。

「沈丁花… 蒼葉の好きな花なんです。この家を建てた時、生垣を何にするか話してたら、珍しくあの子が『沈丁花がいい』って。主人は『あんな甘ったるい花』と反対だったんですが、私は蒼葉に賛成して… 沈丁花が咲くとここに長いこと立って、香りを楽しんでから家に入るもんだから、あの子の体から沈丁花の香りがしたりして…」

「蒼葉君の香りなんですね。本当に甘くて素敵な香り… 蒼葉君にぴったりの香り…」

 むせ返るような甘い香りを放つ、その真っ白なほんわりとした丸い花は、可憐で美しく儚げだった。

 その花に顔を近づけ、薄茶色の澄んだ瞳で愛くるしく微笑む蒼葉が、そこに立っているような気がした。

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