第9話 ハナと物好きな男爵のどら息子

「へえ、また新しい帽子じゃないの」


 くわえ煙草で、脱いだ上着を肩に掛けた男は、彼女の前の席に座る時にひょい、とその帽子を取った。


「何すんのよ!」


 ハナは思わず言い返す。帽子をあっちに返しこっちに返し、男はまじまじと見つめる。


「いつもながらよく作るなあ、と思ってさ。今度のは何風?」

「ディートリッヒ風。こないだ、ちらしを一枚もらったんだ。ふん、どうせ似合わないと思ってるんでしょ」

「別にそんなこと言ってないけどね?」


 にや、と笑って彼はハナに帽子を返す。


「変な帽子、って言わないんだ、日比野さん」

「面白いとは思うけどね。確かにその辺には売ってない」


 そんな会話も、決して大声では無い。さすがのハナも、このクラシック音楽が絶えず流れる喫茶店の中では、そんなことはできなかった。

 最初に彼に連れられてここに入った時には、どういう態度を自分が取ったものか、本気で迷った。場違いだと思った。

 だが慣れとは恐ろしいもので、今では勘定を払う彼が来る前に、堂々と珈琲に加え、ちょっとした軽食まで頼んで彼が来るのを待っている始末である。


「物好きと言えば物好きだね、全く君は」

「悪い? あんたの方がよっぽど物好きだと思うけど」


 物好き。そう、この目の前の男は確かに物好きだった。

 以前働いてたカフェーをくびになったのは、あまりにも頻繁に彼女のお尻を触ろうとする男が居たからだった。ある日遂に切れた彼女は、その客に平手打ちを食らわせた。

 そんな場所と判っていて働いていたのだから、ある程度までは仕方が無かった。仕方が無い、と思っていた。思おうとしていた。しかし彼女には我慢ができなかったのである。

 ああ明日からのごはんをどうしよう、でも何とかなるさ、と矛盾したことを思いつつ、彼女はまとめた僅かな荷物とともに、とぼとぼと歩いていた。

 そこに現れたのが彼だった。後ろから急ぎ足でついて来る気配に、思わず好戦的な姿勢を取ったら、見事に受け止められてしまった。

 何でもその平手打ちの現場を見ていたのだという。そして馬鹿じゃないの、という感想を持ったのだという。

 たいていは、それでも生活がかかっているんだから妥協するところである。食うためなら意地は張っていられないのだ。

 ところが、彼女ときたら住み込みのくせに、我慢の糸を切ってしまったのである。

 馬鹿だな、と思いつつ、何となく気になったので、つい後を追いかけてしまったのだ、と。 

 そして彼はハナをこの喫茶店に連れてきた。

 この物好きな男は、何でも日比野男爵の次男坊なのだという。そして現在、帝大の学生なのだ、と。


「ただし少し長居してるがね」


 そう言ってけだるそうに笑う彼を、どら息子、と彼女は思った。

 が、そのどら息子は何故か彼女に知り合いの映画館に、彼女を紹介した。それから二年程、彼女はそこで案内嬢をやっている。だからまあ、恩人と言えば恩人だ。

 カフェーの女給程の収入は無いが、映画館には住み込みであるし、仕事は出ずっぱりという訳ではないから、彼女にはものを考える余裕ができた。

 洋服を自分で作り始めたのもその頃だった。最初は制服だった。それまで洋服は着たことが無かった。おそるおそる着てみたそれは、着物よりずいぶんと動きが楽だった。

 だが洋服の良さが判ったからと言って、簡単にはいそうですかと買えるものではない。そもそも通りを歩く人々の大半が着物である時代なのだ。

 どうしよう、と彼女は思った。お金はあまりない。だったら自分で作るしかない。彼女の考えはいきなりそこに走った。

 ところが彼女は洋裁のよの字も知らなかった。知っていたのは、故郷で世話になっていた叔母が教えてくれた着物の裁ち方・縫い方だけだった。

 それ以来、ずっとこの裁ち方で彼女は洋服を作っている。ボタンや襟は見よう見まねだった。制服を横において、形を紙にとって、という方法を繰り返し、何となく、こうではないか、とわかり掛けてきた。

 しかし所詮は「見よう見まね」であり、まがい物であることには間違いない。 

 そして彼がこう追い打ちを掛けるのだ。


「それでもよく出来てるよ? ちゃんと何処かで修行すればいいのにね」

「どうせあたしの育ちじゃ置いてくれる店なんてないよ。親は居ないし、最初の職場は飛び出してるし」

「そりゃ君の居た工場が悪いんだろ。だったらさ、学校行けば? そのくらい親父に頼めば資金は出してやれるよ。ちゃんとした学校出れば、それなりに向こうも見てくれる」

「やだよ」


 あっさりと答える。そして彼もまた、そんな時、それ以上には特には勧めない。

 彼女が生まれたのは、横浜だった。六つの時に震災で両親を失い、親戚中をたらい回しにされていた。

 それでも彼女は高等小学校までは行けたのだ。小学校の教師が熱心にその時の叔父夫婦を口説いた。彼女自身も勉強できるものだったらしたかった。

 だけどさすがにそこまでだった。卒業したら、叔父夫婦はその時の学費と生活費、とばかりに彼女を東京近辺の工場に売った。正確に言えば、支度金と給料の前貸しを受け取って、彼女と縁を切った。そしてやがて彼女はそこを抜け出して、東京で職を転々としてきたのだ。


「物好きと言えば、まあ、うちの親父が一番だとは思うけどね」


 日比野は言う。

 彼の父親の男爵は明治になってから「特に国家に功労にあった」事で爵位をもらった類だった。

 だからとにかく金銭的余裕だけはある。しかし自分に学が無いことを振り返り、才能のある若者には支援してやりたい、と思っているのらしい。そのあたりは物好き、とハナも思うが、同時に凄い、と思わずにはいられない。

 そしてその息子は、何故か帝大に入っていながら、既に二年も留年している。


 こんなろくでなしなのにさあ。


 彼女は割り切れない思いを抱えている。

 だってそうじゃないの。彼女は思う。そんな裕福だったら、ちゃんとその持ってる金を使って、できることをじゃんじゃんやればいいのに、何を毎日うだうだうだうだしているんだろう。

 じれったい。だけど、その反面、また彼自身が何処かで何かを待っているような顔なのを、彼女は感じ取っている。

 したいことが分からないなんて、贅沢な悩みだ、とハナは思う。彼女にしてみれば、したいことがあるのに、それが物理的社会的に阻害されている状況なのだから。

 だけど彼女にしたところで、気付いていないが、自分のプライドだけで、彼や彼の父親に無心ができないでいるのだ。

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