〈2〉真実
翌日の放課後。天童駅から奥羽本線に乗った李桃たちは北山形駅で左沢線へと乗り継ぎ、車窓からの景色に会話の花を咲かせながら、終点まで揺られていた。
……などと語れば、さもスムーズな移動をしたように見えるが。十五時過ぎ、終業と同時に学校を飛び出した彼女たちが大江実業にたどり着いたのは、十七時半のことだった。
山形県では、通常の路線など一時間に一本走っているかどうかであることに加え、都心で同程度の距離を走る時間より遥かに長い。山に囲まれた陸の孤島故の不便さである。
こんなことなら全員の電車賃分をガソリン代に回し、紅葉の尻を叩くべきだったとぼやく翡翠に苦笑しながら、一行は紅葉に指示された通り、体育館の裏手へと回った。
大江実業剣道部の稽古は、互角稽古へとさしかかっていた。
部員は二十人以上はいるだろうか。一般部員たちとレギュラー陣は分かれて稽古をしているようで、ちょうど李桃たちが覗いた窓側に、千葉直刃たちはいた。
四分でセットされたアラームに従っての回り稽古をしているらしい。
特別練習生とでもいうべき千葉たちには、補欠がまだ決まっていないのだろう。先鋒から大将までの五人で回れば、一人の余りが発生する。するとその一人は、同じく一般部員側で溢れた生徒を元立ちに切り返しを始めていた。
面打ちだけの切り返し、通常の切り返し、手首を強くするために竹刀を水平に振って行う切り返し、左右の胴打ちを行う切り返し――など、様々な種類の切り返しを、セットごとに切り替えながらローテーションするのだ。四分間、ぶっ通しで。
「うっげー、もしかしてあれ、紅葉センセーの地獄掛かり稽古よりキツいんじゃ……」
「ん。中々、やる」
連続切り返しを行っていた栄花の姿に、咲が前のめりになる。
彼女と体躯がそう違わないというのに、全身のバネを駆使した打ち込みの勢いは衰えることなく、それどころか、そのほぼ全てを正確に打ち据えていた。左右胴の切り返しなどは見ているだけで圧巻。刃筋正しく打ち込んだ際のパァァン、という爽快な打突音が絶えることはない。
互角稽古に取り組んでいる剣士も、凄まじかった。千葉の鋭い太刀筋に怯むことなく、冷静に攻撃を払い落としている選手だ。
「……榊原、凪っ!」
息を呑んだのは、居合を児戯だと虚仮にされた姫芽香。
榊原の剣は、良く言えばバランス型。悪く言えば、早さにも強さにも特化していないオーソドックスなものだ。そんな彼女が、天下の大江実業のレギュラーを張る理由は伊達ではない。
直前のタイマーが鳴ってから、早二分。的確な対処を続けていた榊原は、あの千葉からの致命打を喰らっていないのだ。
「あの防御を攻略できなければ、厳しいわね……」
姫芽香が苦々しく呟く。千葉が相手であるせいか、あまり榊原の攻撃手を見ることができないというのも、歯痒かった。
「瑠璃姉、あれ見て!」
切迫した声で翡翠が指をさしたのは、残る組み合わせ――宮崎姉妹の稽古だった。
姉との間に体格差がありながら、麗緒奈が果敢に連続技をしかけている。小手から面へのセオリー通りの連続技の次は、小手から逆胴へと一気に飛び込んで見せる。さらに警戒して茉莉奈が退けば、小手面から、さらに踏み込んで突きまで狙っていた。
バリエーションの多彩な連続技も目を見張るが、それを支える足捌きこそが、麗緒奈がこれまでどれほどの研究をしてきたかを思わせる。
対する姉も負けてはいない。手数で攻める妹に対し、茉莉奈は遠い間合いから瞬時に間合いを詰める一足の飛び込みで対応していた。長いリーチを活かし、それでいて大振りにはならずに防御を掻い潜ってくるのだから、恐ろしい。
「悔しいですが、打ち込みが綺麗です」
瑠璃が痛感に呻いたその時、宮崎姉妹の稽古に異変が起きた。
茉莉奈の遠間からの面に、出ばな小手をしくじった麗緒奈が、そのまま強引に面へと連続技を試みたのだろう。しかし、相手は面を決める寸前。後手に回った者が同じように竹刀を出したところで遅いことは明白だった。
そこで麗緒奈が取った行動が、蹴り足である左足を軸に斜め前へと体を捩じっての二の太刀。しかし体格差も拍車をかけてか、身体が交差した瞬間に弾き飛ばされてしまう。
足をもつらせたことに加え、頭から落下した彼女は、すぐには起き上がれずにいた。そこへ茉莉奈が、助け起こそうと手を伸ばした時、体育館の外にまで響くような怒号が飛んだ。
「何をやっている、止めを刺さんか!」
内村顧問の一喝に、茉莉奈の手が止まる。すぐに彼女は竹刀を握り直すと、麗緒奈のがら空きの胴めがけて、横に振り抜いた。
剣道の試合では、転んだ相手に対しての追撃は有効打となる。基本的には止めの号令がかかって仕切り直しになるのだが、号令がかかるまでならば猶予があるのだ。
追撃を行った茉莉奈に対して、憤怒の形相で内村が詰め寄る。しかしそれは、追撃をすぐに行わなかったからではなかった。
「なぜ、胴にした?」
「はっ、確実に狙えたからです」
「確実に狙えたからだと? あからさまな餌に飛びつくだけなら犬と変わらんだろうが!」
そう言って内村は、身体を起こしかけていた麗緒奈を、自身の竹刀で押し戻した。
いつの間にか、周囲の部員たちも手を止め、固唾を飲んで見守っている。
「いいか、俺様は止めを刺せと言ったんだ! ゴルフクラブじゃないんだぞ、立ったまま振った刀で何がどう有効打突になるんだ。本当に相手は斬れているのか!?」
直後、麗緒奈が嗚咽を漏らした。仰向け状態の突き垂れへ、内村の竹刀が沈んだからだ。
「倒れた相手は突け、膝をついた敵も突け! 奴らは転倒した瞬間に何をする? 攻撃を警戒して、面を防ぎながら立ち上がろうとする、違うか? そこを突くんだよ。
いいか茉莉奈、体育学部の連中というのは文武両道などと抜かしながら、どうも脳味噌が筋肉でできているようだから、貴様みたいな奴にも分かりやすく言ってやる。容赦なく叩き潰せ、完膚なきまでだ!」
「……っ、はっ!」
次に内村は、突き立てていた竹刀を引き、気道が解放されたことで咳き込み始めた麗緒奈の面金に指をかけ、引き起こした。
「ところで麗緒奈、貴様は何をやっていた? どうして倒れたままだったんだ。俺様が貴様の出来損ないの姉に追撃を指示してからも、かなりの時間があったよな……?」
「それは……ゴホッ、ケホッ……頭を、打って……ケホッ」
彼女の弁解に、内村は優しげに微笑み返す。
「そうか、痛かったのか、可哀そうにな。それならもう一つ訊かせてくれ。頭を打った痛みと、さっき俺様に突き押さえられて窒息しそうになった苦しみ、どちらが上だ?」
「そ、それは……」
「答え辛いよな、いいぞ。気持ちは分かる。別の問いにしようか。頭を打った痛みに耐えながら死に物狂いで生きることと、そのまま悶絶している間に殺されるのと、どちらがいいんだ?」
「……ひっ、ごめ、なさい……すみません、すみま――」
「うるせぇ! 誰も死んだ人間の謝罪なんざ聞いてないんだよ!」
そのまま歯を鳴らしている麗緒奈の胴に手をかけると、遠心力を利用してぶん投げた。
「『痛かったんでしゅ~』なんて無様な理由で死を受け入れたどころか、俺様のたった二択の質問にすらまともに答えられない。しかも二度もだ! これだからアイドルとかいう小便臭いガキは大嫌いなんだよ。ちやほやされたいでしゅ、でも辛いレッスンは嫌でしゅ、コミュニケーションに頭を使うのも無理でしゅ!? 貴様みたいなマグロ女に誰が幻想を抱くんだ!」
転がる麗緒奈を足蹴にしながら吐き捨てる光景は、目を覆いたくなるようなものだった。
しかし、窓の外から様子を窺っていた偵察たちは、次に内村が発した号令に、さらに開いた顎が塞がらないこととなる。
「一度休憩だ、後半は上に着ている道着を脱いで行う!」
その言葉で初めて、大江実業の部員全員が、ただでさえ重い綿の道着を二枚重ねにしていたことに気づかされた。動きを制限することで、身体に負荷をかけるためだろう。
「身軽になるということを良く考えろ。これ以上頭ん中がお花畑な稽古を続けてみろ、貴様ら全員、全校生徒からキモデブかき集めて
「「「「「はっ!」」」」」
最初に窓ガラスから顔を背けたのは、翡翠だった。呆気にとられて動けずにいた瑠璃たちも、彼女が動いてくれたおかげで、やっと、つられるように逃げることができた。
「なに、これ……あの子、こんな稽古してたの……?」
「わたし、見ているだけで泣いてしまいそうです」
「ん。鬼畜すぎる」
顔を伏せたままで、あの凄絶な光景に肩を震わせる。
王将ホテルで初めて出会った時に、大江実業の面々が放った辛辣な発言の数々は、間違いなく、この環境で腕を磨いてきたことによるものだろう。
内村の指導に心を壊さずにいられるのだ。強いなどという枠で語ることすら憚られた。
「これが、『羅刹』と呼ばれた人の剣道なのね……」
「…………違うよ」
一日ぶりに聞いた声に、姫芽香は思わず顔を上げる。
「やっぱり、こんなの違うよ。殺すために剣を振るなんて……剣道じゃない。剣道はもっと楽しいはずだよ。確かに、辛いこともいっぱいいっぱいあるけど、それでも……っ!」
ただ一人、窓ガラスから目を離さずにいた李桃の目から、大粒の涙が溢れていく。
姫芽香は彼女の肩をそっと抱き寄せ、帰るその時まで、傍に寄り添っていた。
* * * * * *
李桃が帰宅した頃には、すでに祖母は夕飯の支度を終えて待ってくれていた。いそいそと靴を脱ぎ、洗面所に向かう一方で、背中にかけられた「今日も楽しがったがや?」という一言には、努めて明るい声で返事をする。
洗面所の三面鏡に映る自分の顔は、いずれも笑ってなどいない。祖母を嫌いになったわけなど毛頭ないが、何故だろう。我ながら嘘が上手くなったものである。
食卓につくと、盛りたてほかほかのご飯茶碗を渡された。
「散歩さいったっけ、ふきのとうば見っげでよ。もう今年最後のになるべす、
嬉しそうに勧められたのは、小振りなふきのとうの天ぷらだった。大皿には他にも、店で買い足したのだろうアスパラガスやうど、タラの芽が添えられている。どれもカラッと揚がっており、香ばしいながらも、しっかりと青い山の香りを感じる。
李桃は祖母の作る山菜の天ぷらが好きだった。衣をつけすぎず、絶妙な食感をぎりぎりで演出する揚げ物には病み付きになるのだ。
「美味しそう……いただきます」
手を合わせて箸を取り、抹茶塩につけたふきのとうを口に入れる。じわっと溢れる苦みの中で、柔らかく膨らむほのかな甘みが絶品だった。もう四月も下旬だが、これほどのふきのとうが残っているとは。
山形は夏に温暖化の影響をもろに受ける反動か、冬は冬で容赦ない寒波に見舞われる。今年も、『例年より桜の開花が早い』と予報されながら、その週末に訪れた突発的な寒波によって、結局花見のピークは後ろへずれこんでしまった。
「ん、ん~~~!?」
自然の味を楽しもうなどと塩をつけずに頬張った瞬間、嫌なえぐ味が口の中から鼻の奥にまでいっぱいに広がった。半泣きで耐えていると、祖母がボックスティッシュを取ってくれる。
「ふぇぇ、ありがどぉぉ……」
「ほほ、大当たりだっけにゃ。草木も生き物。いい人生を送って来た奴だったんだがもすんね」
からからと笑う彼女に、李桃は口を拭う手を止める。酸いも甘いも、などといった言葉自体は知っているものの、この苦味などからはいい人生――この場合は草生だろうか――というものは、どうも想像できない。自分が青二才だからなのだろうか。
常日頃から『生きてきた証だ』と言って隠そうともしない祖母の顔の皺たちを目で数えていると、首筋のところで、思わず目を逸らしてしまった。
「苦味がいい人生、かぁ……」
改めて咀嚼しても、やはりよく解らない。
箸を置いた李桃は、思い切って祖母に訊ねてみることにした。
「ねぇ、お婆ちゃん。『殺人剣』って知ってる?」
にわかの質問に、彼女はわずかに驚いたような顔をしたが、すぐに微笑みを湛えたいつもの顔へと戻り、味噌汁を一口啜った。
「そだなものは無いず。全ては活人剣、ただ少しばかり
「で、でもっ! お婆ちゃんの首の傷は――」
声を荒げかけた唇が、しわくちゃの人差し指に押さえられる。
剣道の突き技は、確かに竹刀がしなるくらいまで力強く放たれることが多いが、それでも首の皮を裂くほどではない。なぜなら、突き垂れから外れてしまったことが手応えで判るため、大抵はそこで急停止し、引っかかった竹刀を外して仕切り直すからだ。
それでも、ここまでの怪我を負うことになるケースは、可能性として大きく二つ。
一つは、相手が未熟であること。引っかかっても止める術を知らないからである。
そしてもう一つは、相手が最初から喉を突き破るつもりで突きを放ってくることだ。
千葉直刃が突いてきた感触が脳裏にリフレインする。落ち着いてきたと思っていた指先が、再び震えはじめた。今立ち上がろうものなら、多分、よろけてしまう。
あれほどの技が、もし突き垂れと面垂れの間に滑り込んでいたとしたら。
李桃は首を振った。そんなこと、考えもしたくない。
「……お婆ちゃんは、首を怪我させた相手を、どう思ってるの? 怖いとか、憎いとか」
涙の代わりに零れた言葉を、祖母が鼻で笑って吹き飛ばす。
「
「あの子……って、相手は子供なの!?」
「んだっても、十年も前のことだず。あの子ももう二十八になったべは。国体の選抜チームに選ばれるくらい、すっごく強かったんだっけじぇ」
優しげな瞳で、まるで我が子のように自慢をしてくる祖母。
伝説世代。千葉が用いた単語を思い出した李桃は、驚きのあまりに手を茶碗に引っかけて倒してしまった。艶やかに立った白米が零れ落ちる。
「ほらほら、
「教えてお婆ちゃん!」
苦笑している祖母に詰め寄る。敵討ちなどという御大層なことを考えているわけではないが、部の存続以上に譲れない、意地でも負けられない戦いになりそうだった。
「お婆ちゃんを突いたのって、内村桜花さん――『羅刹』の人だよね!?」
しかし、次の瞬間。
首を横に振った祖母から告げられた名前に、李桃は立ち眩んだ。
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