〈3〉燃えよドラゴン

 翌日の稽古は急遽、休みとなった。自分の我が儘のせいであることを申し訳なく思いながら、李桃は仲間たちへと小さく手を振り、一人、武道場へと向かう。


 気合いを入れるために道着へと着替えて、コートの開始線で正座していると、間もなく、入口の扉が開かれた。入ってきたのは、紅葉だ。彼女は李桃の道着姿に居心地の悪そうな表情を浮かべながら、対面の開始線へと腰を下ろした。



「話があるということだったな。どうした?」



 顔を上げた紅葉の顔からは、雑念の一切が取り去られている。

 若干気圧されながらも、李桃は意を決した。



「お婆ちゃんから聞きました。お婆ちゃんが現役を引退することになった首の傷……あれをつけたのは、紅葉先生だって」


「……そうか。聞いたか」



 返ってきた声色は、意外にも淡々としたものだった。



「オレだって仮にも『悪鬼』と呼ばれていた人間だ。決して許されない事件を起こしたことについては弁解しない。確かにあの時、オレはナツ先生を殺すつもりで剣を振るったよ」



 一片の曇りもなく、堂々とした懺悔だった。

 あまりに澄みきっていたため、李桃は膝の上で握っていた拳の行き場を失って、そっと力を緩める。もしかしたら、最初から行き場など無かったのかもしれないが。


 どうしてあなたなのかと、どうして『羅刹』の方ではなかったのかと、詰問することはできただろう。村山ナツという剣士を殺されたということに孫の自分が怒り狂ったとしても、おそらく誰も咎めなかったかもしれない。


 しかし、李桃は首を横に振った。目的はあくまで、話を信じたくなかった自分との決別であり、祖母の顔に泥を塗ることではない。



「きっと、お婆ちゃんは許してます」


「ああ、知ってる。直接言われたからな」



 紅葉の目が思い出に細められる。



「オレを赦さないのは、オレ自身なんだよ。村山ナツという偉大な師を仰ぎながら、剣を置いてみるまで、殺人剣を以て道を志すなど不可能だということに気がつかなかった自分を、な」



 今度は紅葉が、拳を握りしめる番だった。

 そんな彼女に李桃は「あれっ?」と素っ頓狂な声を上げる。



「そういえば、あたしが初めて武道場に来たときも『剣を置いた身だ』って言ってましたよね? でもお婆ちゃんは、あの事故があったことで、紅葉先生が『本気で剣道と向き合うきっかけになった』って言ってましたけど……あれれっ?」


「ああ、そのことか。相変わらず、全てを話さない人だな、先生は」



 紅葉は困ったように笑った。李桃が敢えて事故と言ったことには何か言いたげな表情を見せていたが、野暮に蒸し返すことはなかった。



「なぁ李桃。剣を握らなくとも、剣道に向き合うことはできるんだよ」


「はぁ。まぁ、そうですけど……」



 曖昧に頷き返す。彼女が言っている意味の理解はできていた。


 剣道は門戸が広いところがある。何歳からでも始められるし、学生から社会人になったことで時間をとれず、暫く稽古とは離れていた者は多いが、いつから再開したって構わない。生涯現役、という言葉では齟齬があるように思うが、合同稽古などにいけば、幼稚園生くらいの子どもから定年をとうに過ぎたご高齢の先達まで、顔ぶれは幅広いのだ。そしてこの、よくもまあ腰が曲がらないものだという年代の大先生こそが、べらぼうに強かったりする。


 他にも指導者として携わったり、伝手のある地元のスポーツ少年団に時々顔を出したりと、関わろうと思えば一生涯関わることができる。これもまた、剣道が道たる所以かもしれない。


 そんな李桃の思案顔を見透かしたように、紅葉は手を払った。



「いや、多分お前が思っている意味とは違う。そうだな、いい機会だ。どうしてオレが、お前たちの考えた『武術の融合』を面白いと思ったか話そう」



 そう言って腰を上げると、紅葉は「こっちへ来い」と、師範室へ促してくる。

 以前翡翠たちが探検と称して入っていたが、李桃には未知の領域だった。


 木製の引き戸を開けた紅葉を追って、内側にかけられた暖簾をおそるおそるくぐると、案外狭い部屋だった。印象としては、師範室というよりも、資料室といったところだろうか。ここも手入れが行き届いているのか、カビや埃の臭いは気にならなかった。


 部屋の奥にある書斎机の上には剣道の月刊誌が積み上げられ、入口側の壁に置かれたスチールの棚にはバインドされた書類が所狭しと並んでいる。書類の背表紙を装丁するように貼られたシールには、それぞれ年度や、大きなものだと大会名を書いて分類されていた。

 入口の扉の端が接する側壁は何もないが、右手側の壁は一面が本棚である。翡翠たちが発掘してきた剣道の教則本も見受けられた。


 本棚に向かった紅葉は、人差し指で棚をなぞりながら何かを探していた。



「剣道と他武術が相互に高め合う『活人剣』としての理想形にも惹かれたが、それだけじゃあない。お前は、ブルース・リーを知っているか?」



 そう言って彼女が棚から引き抜いたのは、赤いパッケージのDVD。髪型のせいだろうか、どうもヌンチャクを持った男性より、アフロの方が目立って見える気がする。そんな時代を感じる劇画の上には『ENTER the DRAGON』と書かれていた。


 邦題『燃えよドラゴン』。李桃も名前は耳にしたことがある、アクション映画の傑作である。



「ブルース・リー……ええと、ほわうぉぉぉぉ、ほわちゃぁぁっ! の人ですよね」



 そう李桃が答えた瞬間、紅葉は眉間を押さえて本棚に頭を押しつけた。



「ま、ままま間違ってましたか!?」


「いや、いい。合ってる。確かに怪鳥音の気声でも有名だな……。簡単に説明すると、彼は幼少期に学んだ詠春拳をベースに、主にフェンシングやボクシングなんかの技術を取り入れたマーシャルアーツ『截拳道』を創始した人物だよ」



 その場に腰を下ろしながら解説を続ける彼女に倣い、李桃もぺたりと座り込む。



「本題はこの截拳道なんだがな、これがまた凄いんだ。科学的なパワーラインを徹底して意識されたスタンスやフットワーク。電光石火の如く、コンマ数秒のうちに最大限の力を乗せるためのストレート・リードという概念。『単一角度攻撃シンプル・アングル・アタック』や『引き寄せての攻撃アタック・バイ・ドローイング』などと分類された五つの攻撃方法――」


「はい先生、英語で言われても解りません!」



 李桃は思わず挙手をした。誤解のないよう敢えて言うが、別に饒舌が過ぎて攻撃モーションのデモまで始めた紅葉が鬱陶しかったからではない。狭い空間でされるのは少し困るとは思ったが、それだけだ。



「お前な、新入生課題テストで英語も満点だったろうが……シンプル、アングル、アタック。そのまんまだろ、何が解らないんだ」


「え、へへへ……」


「まあいい、話を戻すぞ。截拳とは、相手の攻撃を遮るということ。そこにダオ――これは剣道の『道』だな。ダオという字がつくことで、截拳道という名称そのものが、生きる上での障害を乗り越えるという意味が込められた、理念となっているんだ」


「はい、先生!」


「……今度はなんだ」



 呆れたように眉を潜める紅葉に、李桃は挙げた手を下ろすのと入れ違いに首を傾ける。



「結局、剣道と何の関係があるんですか?」



 それが、紅葉の苦い顔へと火を点けてしまった。



「今から話すところだっての。だいたいな、最近のガキどもはすぐ『話が長いです先生』とか『要点だけ言ってくださーい』とか言いやがるが、そんなのある程度仕組みを理解した者同士でする話だよ。いいか、ゆとり世代っつーのはな、土曜が休みになったから発生したんじゃない。無駄に大人の猿真似をして背伸びして、何をするにも最初に説明書を読まないバカが多いから発生したんだ。脱ゆとり教育で学力低下が止まっただ? そんなん教師陣が国にせっつかれたからであって、ちょっとした教科や時間の増減のおかげじゃない。バカな学校はゆとり教育の前からバカだし、脱ゆとり教育の後でもバカだ。これからもどうせ、ゆとり世代って言葉が使われなくなるだけで、新しい言葉が――って、おいこら聞いてるのか?」


「ひゃっ、ひゃい! ちゃんと聞いてまふっ!」



 李桃は弾かれるように、寝落ちしかけている舌で返事をした。紅葉がメトロノームのように膝を叩きながら話すせいで、話の半分も聞いていないなどとは、口が裂けても言えないが。



「ええと、どこまで話したんだったか。まあともかく、だ。これだけ目を見張る要素が詰まっている截拳道だが、その基本スタンスを全て持ち合わせている武道があるんだよ。日本に」


「それが、剣道……?」


「正解だ。凄いと思わないか? ブルース・リーが色んなものを必死に学んで創ったものは、拳か刀かの違いこそあれ、理念までひっくるめて、すぐ海の向こうのサムライたちが既に実践していたんだよ!」



 興奮気味に捲し立てる紅葉は、子どものように無邪気だった。

 彼女は自分が思わず立ち上がっていたことに気がついて、気まずそうに居ずまいを正す。



「何冊か截拳道の本を探して読んだが、まず剣道という単語は出てこない。だがな、そんな中で、剣道と截拳道が似ているというヒントをくれたのが、ナツ先生なんだ」


「でもお婆ちゃん、じーくんどーとかやってませんよ?」


「ああ、だろうな。そこでこいつの出番なんだよ」



 紅葉はそう言って、足下のディスクケースを指先で叩いてみせた。



「先生に怪我を負わせてしまったことで、オレは剣道を止めようとしたんだ。どうせ引退も目前だったしな。そんなオレに、気分転換に見てみろと、ナツ先生がこれをくれたんだ。

 それからオレは、截拳道の研究をしながら剣道を探ってる。大学を卒業してこの学校に戻ってきたが、もうその時には剣道部も無くなっていてな。そんな時だよ。お前が来てくれたのは」



 思い出、喜び、後悔、感謝、落胆。様々な記憶を一足飛びで駆け抜け、話しながらその表情をころころと変えていた紅葉だったが、突然がばっと体を起こし、膝立ちになる。



「オレがいうのも何だが、お前は胸を張っていい」



 そして李桃の両肩を掴み、じっと目を見据えてきた。



「瑠璃たちの武術に目をつけ、姫芽香を連れ戻したお前には、あの『果樹王国の女王』の血がちゃんと流れているんだ。しかも、オレについての話を今まで聞いたことがないのにやってのけたというんだから、それは間違いなく、お前自身の剣道――活人剣の力なんだよ」


「あたしの……剣道……」


「ああ。オレはそこに惚れたんだ。千葉を倒せる奴がいるとすれば、李桃。お前しかいない」



 最後に微笑んで、肩をぽんぽんと叩かれた。話は終わりだということだろう。



「にしても、今日は部活を辞めると言われるんじゃないかと思ったよ」



 立ち上がった紅葉は、頭を掻きながら唇を尖らせた。



「ふぇっ? そ、そんなことしませんっ! あたし、剣道が大好きですもん!」



 ぶんぶんと首を大振りして否定する李桃に、大丈夫と判断したらしい紅葉が、にやにやと脇を突っついてくる。



「そうかぁ? 千葉にボコボコにされて滅茶苦茶凹んでたくせに」


「あ、あれは……その、ご迷惑をおかけしまして……ごにょごにょ」


「ははっ、何だよ柄にもない。それに、その言葉を言うべき相手はオレじゃない。だろ?」



 背中を叩いて尋ねられた言葉に、はっと息を呑む。

 顔を上げると、書斎デスクの向こうの窓から差し込んでくる夕陽が、紅葉の赤いジャージを光に溶かしていた。黄昏時に映える、眩しいくらいに美しい笑顔。


 そこにはもう、『悪鬼』と呼ばれていた名残の要素は見られなかった。


 ……などと感じてしまったことを、たった数日で後悔することになるのだが。そんなことは、返事も忘れる程に紅葉に見惚れている今の李桃には、まだ先の話である。

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